第17話

 ミリアナの島を出航したのは、潮の満ち際だった。

 夜明けの光が水平線を照らし始め、空と海が溶け合うように輝いていた。

 風は穏やかで、帆は膨らみ、小舟はなめらかに水面を滑ってゆく。


 俺の隣には、シーナがいた。

 巫女の衣を旅装に変え、肩には海風を遮る薄い外套を羽織っている。

 その表情は凛としていて、けれどその瞳には確かな期待が宿っていた。


「風、潮、流れ……すべてが整っています。

 海は、私たちの旅を歓迎しているようですね」


「ああ、感じるよ。……このまま、どこまでも行けそうな気がする」


 帆を張り直しながら、俺は海の先を見つめる。

 目指すは東方海界、シーナの記憶にある“浮潮群島”。

 そこには、彼女の母が遺した血の記憶と、失われた“第二の潮核石”が眠っているという。


 俺が“潮導核”を手に入れてから、セラシオンとの契約は一段階深まった。

 彼の声はより明瞭になり、海の意思と交わす対話も具体性を帯びてきた。


 ――旅を進めよ。波の記憶を集め、海の均衡を正せ。


 それが、俺に託された“波の使命”。


 支配ではなく、調和を。

 命を削る力ではなく、命を護る力を。


 その在り方を、世界に示すことが、俺の役目になったのだ。


 


 昼近く、潮流に乗って数時間が経った頃、海の色が変わり始めた。


 青が、緑へと染まり、やがて淡い乳白色に近づいていく。


「……これは、浅海域?」


「いえ……これは“潮霧層(ちょうむそう)”です。

 この先に、“霧に閉ざされた島”があると言われています」


「潮霧層……初めて聞くな。普通の霧とは違うのか?」


「ええ。これは、海の精霊が眠る場所とされていて、進路を誤ると船が永遠に彷徨うと言われています」


 そう語るシーナの声に、わずかな緊張が混じる。

 けれど俺は、胸の奥に確かな導きを感じていた。


 《潮の眼》が、霧の中の道を照らしている。


 海の流れが描く“道”は、確かにそこにあった。


「大丈夫だ。見えるよ、進むべき方向が」


「……さすがですね。潮導核の加護、想像以上です」


「でも、驕らないさ。……波は、誤ったらすぐに牙を剥く」


 それが、海で生きる者の常識だった。


 霧が濃くなり、視界がほとんど閉ざされる。

 だが、俺たちは迷わず進む。

 風が語りかけ、波が揺れ、海の精霊が囁いてくる。


 ――おまえは、何を求めてここへ来た?


 俺は答える。


「命を護る力を求めてる。繋がりを絶やさずに、生きるために」


 霧の中、何かが応えた気がした。

 それは風か、波か、あるいは……霧そのものだったのかもしれない。


 そして、ふいに視界が開けた。


 霧の向こうに、ひとつの島影が浮かんでいた。


 それは――空に浮かぶように見える、白銀の島。


 風がささやいた。


 ――ようこそ、“精霊の漂島(ひょうとう)”へ。

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