第9話

「気をつけて、ナラヤン」


 出発直前、ミンが近づいてきて、小さな布袋を差し出した。

 中には、乾燥させた果実と薬草、それに手作りの塩菓子が入っていた。


「旅先で何があるかわからないから、少しでも力になるものを入れておいたの。……無理は、しないでね」


「ありがとう。……ミンの言葉、俺にとっては一番の御守りだ」


 そう言うと、彼女は恥ずかしそうに目を逸らし、でもすぐに小さく笑った。


「帰ってくるの、待ってる」


 その言葉を胸に刻んで、俺は背を向けた。


 旅路は、村の東門から始まる。

 そこから先は、ほとんどが密林と段丘の入り組んだ土地だ。

 川を渡り、山を越え、時には野獣と遭遇することもある。


 だが俺には、“護り手”がいる。


 歩き出すと同時に、背中で熱が波打った。

 ナーガの力が、俺の一歩一歩に反応している。


「行こう、ナーガ。俺たちの旅は、これからだ」


 風が吹いた。

 緑の葉が舞い、太陽の光がまるで祝福するように差し込む。


 振り返らずに、俺は村を後にした。

 この足で、自分の価値を証明するために。


 最初の目的地は、地図に記されていた“赤い洞窟”――

 そこには古くから、火の精霊が封じられているという伝説が残されている。


 俺はその場所へ向かって、ひたすらに歩を進めた。



 村を出て三日が経った。


 昼間は濃密な樹海を抜け、夜は焚き火の傍で眠る。

 雨季特有の湿り気が空気を重たくしていたが、不思議と足取りは軽かった。


 ナーガの気配は常に背中に感じている。

 その存在は、言葉を交わさなくともわかる“絆”として根付いていた。


 地図によれば、赤い洞窟は“シンハ山”と呼ばれる標高の低い山岳地帯の麓にある。

 かつて神々の炎が噴き出した場所と言われ、今では誰も近寄らない“忌み地”となっているらしい。


 ──だが、俺は行く。


 それが試練であるならば、必ず乗り越えてみせる。

 その決意だけで、ここまで来た。


 四日目の昼過ぎ。

 視界の奥に、赤土の崖と黒ずんだ岩肌が見えてきた。


 それは、地図の記された場所と完全に一致していた。


「……あれが、赤い洞窟か」


 近づくにつれて、空気が変わっていくのを感じた。

 生き物の気配が薄れ、風が途絶え、気温だけがじっとりと上がっていく。


 洞窟の入り口は半ば崩れかけていたが、奥からは確かに熱気が流れてくる。

 そして、どこか遠くで“唸るような音”が、断続的に響いていた。


 俺は一歩、踏み出す。

 ナーガの力が反応した。


 契約者としての直感が告げている――

 この奥に、ただならぬ“存在”がある。


 それは、俺が最初に向き合う“精霊の試練”。


「行こう。ここで……俺の力を、試す」


 洞窟の中は、真っ赤な光に照らされていた。


 赤い光は、岩の裂け目から漏れ出していた。

 洞窟の奥深くで何かが燃えている――それは火ではなく、“存在そのものが燃えている”ような異質さを帯びていた。


 歩を進めるたび、岩肌がじわじわと熱を帯びていく。

 空気の密度が高まり、汗が額を伝う。


 洞窟の壁には、古代文字らしき彫刻があった。

 それらは何百年、あるいは千年以上前のものかもしれない。


 けれど、驚いたのはその文字が、俺の目に“意味”として流れ込んできたことだった。


「……試されし者、火の主に認められし時、真なる灯を得ん」


 口に出してから、思わず息をのむ。


(読める……? いや、これは……ナーガの加護か)


 そう思った瞬間、胸の文様が微かに脈打つ。


 先へ進む。

 やがて、空間が広がり、そこに“それ”はいた。


 燃え上がるような炎の塊――だが、それは明確な意志を持っていた。

 人の形を模したような輪郭。二つの眼孔が、真紅に輝いていた。


 火の精霊だ。

 この地に封じられた古の神性の残滓。

 俺の気配に反応し、身を揺らす。


 炎が渦を巻き、洞窟内の温度が一気に跳ね上がる。


 試している――俺を、契約者としての“格”を。


「俺は、ナラヤン・ラーチャ。ナーガの契約者。ここで……お前の力に触れに来た」


 熱風が巻き上がり、立っているのも困難になる。

 だが、逃げる気はなかった。


 これが、俺の選んだ道。

 力を手に入れた者として、避けては通れない道だ。


「俺の覚悟、見せてやるよ!」


 叫ぶと同時に、胸の紋が強く光を放ち、周囲の炎を押し返す。

 ナーガの気配が背後で広がり、熱に対抗するように冷たい気が流れ込んでくる。


 神と神、力と力――

 ぶつかり合いが、いま始まろうとしていた。

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