第9話
「気をつけて、ナラヤン」
出発直前、ミンが近づいてきて、小さな布袋を差し出した。
中には、乾燥させた果実と薬草、それに手作りの塩菓子が入っていた。
「旅先で何があるかわからないから、少しでも力になるものを入れておいたの。……無理は、しないでね」
「ありがとう。……ミンの言葉、俺にとっては一番の御守りだ」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに目を逸らし、でもすぐに小さく笑った。
「帰ってくるの、待ってる」
その言葉を胸に刻んで、俺は背を向けた。
旅路は、村の東門から始まる。
そこから先は、ほとんどが密林と段丘の入り組んだ土地だ。
川を渡り、山を越え、時には野獣と遭遇することもある。
だが俺には、“護り手”がいる。
歩き出すと同時に、背中で熱が波打った。
ナーガの力が、俺の一歩一歩に反応している。
「行こう、ナーガ。俺たちの旅は、これからだ」
風が吹いた。
緑の葉が舞い、太陽の光がまるで祝福するように差し込む。
振り返らずに、俺は村を後にした。
この足で、自分の価値を証明するために。
最初の目的地は、地図に記されていた“赤い洞窟”――
そこには古くから、火の精霊が封じられているという伝説が残されている。
俺はその場所へ向かって、ひたすらに歩を進めた。
*
村を出て三日が経った。
昼間は濃密な樹海を抜け、夜は焚き火の傍で眠る。
雨季特有の湿り気が空気を重たくしていたが、不思議と足取りは軽かった。
ナーガの気配は常に背中に感じている。
その存在は、言葉を交わさなくともわかる“絆”として根付いていた。
地図によれば、赤い洞窟は“シンハ山”と呼ばれる標高の低い山岳地帯の麓にある。
かつて神々の炎が噴き出した場所と言われ、今では誰も近寄らない“忌み地”となっているらしい。
──だが、俺は行く。
それが試練であるならば、必ず乗り越えてみせる。
その決意だけで、ここまで来た。
四日目の昼過ぎ。
視界の奥に、赤土の崖と黒ずんだ岩肌が見えてきた。
それは、地図の記された場所と完全に一致していた。
「……あれが、赤い洞窟か」
近づくにつれて、空気が変わっていくのを感じた。
生き物の気配が薄れ、風が途絶え、気温だけがじっとりと上がっていく。
洞窟の入り口は半ば崩れかけていたが、奥からは確かに熱気が流れてくる。
そして、どこか遠くで“唸るような音”が、断続的に響いていた。
俺は一歩、踏み出す。
ナーガの力が反応した。
契約者としての直感が告げている――
この奥に、ただならぬ“存在”がある。
それは、俺が最初に向き合う“精霊の試練”。
「行こう。ここで……俺の力を、試す」
洞窟の中は、真っ赤な光に照らされていた。
赤い光は、岩の裂け目から漏れ出していた。
洞窟の奥深くで何かが燃えている――それは火ではなく、“存在そのものが燃えている”ような異質さを帯びていた。
歩を進めるたび、岩肌がじわじわと熱を帯びていく。
空気の密度が高まり、汗が額を伝う。
洞窟の壁には、古代文字らしき彫刻があった。
それらは何百年、あるいは千年以上前のものかもしれない。
けれど、驚いたのはその文字が、俺の目に“意味”として流れ込んできたことだった。
「……試されし者、火の主に認められし時、真なる灯を得ん」
口に出してから、思わず息をのむ。
(読める……? いや、これは……ナーガの加護か)
そう思った瞬間、胸の文様が微かに脈打つ。
先へ進む。
やがて、空間が広がり、そこに“それ”はいた。
燃え上がるような炎の塊――だが、それは明確な意志を持っていた。
人の形を模したような輪郭。二つの眼孔が、真紅に輝いていた。
火の精霊だ。
この地に封じられた古の神性の残滓。
俺の気配に反応し、身を揺らす。
炎が渦を巻き、洞窟内の温度が一気に跳ね上がる。
試している――俺を、契約者としての“格”を。
「俺は、ナラヤン・ラーチャ。ナーガの契約者。ここで……お前の力に触れに来た」
熱風が巻き上がり、立っているのも困難になる。
だが、逃げる気はなかった。
これが、俺の選んだ道。
力を手に入れた者として、避けては通れない道だ。
「俺の覚悟、見せてやるよ!」
叫ぶと同時に、胸の紋が強く光を放ち、周囲の炎を押し返す。
ナーガの気配が背後で広がり、熱に対抗するように冷たい気が流れ込んでくる。
神と神、力と力――
ぶつかり合いが、いま始まろうとしていた。
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