(2) 阿古

◇◆◇


 鷹人より二つ年下の幼馴染の少女、阿古。

 阿古は鷹人を兄のように慕い、鷹人も彼女をのように可愛がっていた。


 年上の少年たちに混じっては野山を駆け回り、木登り、虫取り、魚釣りに川遊び――牛や馬まで乗りこなすお転婆ぶりに、誰もが阿古のことを「鷹人の弟分」だと疑わなかった。


 鷹人の一族と阿古の一族は、共に宇佐の杜に仕える神職の家系である。鷹人は、権勢を志向する大神(おおが)氏。対して阿古は、儀礼を重んじる辛嶋(からしま)氏。古くから、宇佐の杜ではこの二氏に加え宇佐(うさ)氏が覇を競い合ってきた。


 かつて大神田麻呂と大神杜女が誇った大神氏の栄華も、今は昔。鷹人が物心つく前、田麻呂と杜女は呪殺の罪により失脚した。二人は、大仏建立の功により得た官位を剥奪され、流罪に。さらには祭神たる八幡大神やはたのおおかみまでもが、この事件の穢れを避けて伊予国(現在の愛媛県)へと遷座せんざされるという、前代未聞の醜聞となった。


 この事件以来、大神氏は宇佐の神職団から忌避され、中でも鷹人は、「鷹人が杜女の子である」という、大神の中でも限られた者しか知らぬはずの秘密が漏れ、一族の内からも冷たい視線を浴び続けて育った。


 そのような身の上であったが、鷹人は陰口にも、あからさまな嫌がらせにも、決して怒ることなく、嘆くこともなかった。ただ静かに頭を下げるその姿には、卑屈さは微塵もなく、かえって凛とした強さが滲んでいた。


 年に似つかわしくないその気丈さの根には、多禰国(種子島)へと流された養父・大神田麻呂の厳しい教えがあった。


 田麻呂は、たとえ没落しようとも勉学と武術を怠るな、一族再興のため力を尽くせ――そう幾度も使者を通じて鷹人に伝え続けた。


 田麻呂には実子もいたが、あまりに鷹人を気にかける様子に、周囲は「鷹人だけが贔屓されている」と眉をひそめるほどだった。

 鷹人自身が、田麻呂が実父ではないと知った後も、唯一自分を案じてくれるその存在は、鷹人にとって何よりの拠り所だった。


 一族の再興にこそ興味はなかったものの、養父の言葉ひとつひとつに、鷹人は誠実に応えた。


 年齢に見合わぬ落ち着き、柔らかな物腰、冴えた聡明さ――そうしたものを自然と身に着けていった鷹人に、やがて嫌がらせをする者はいなくなったが、それでも、彼はいつもひとりだった。


 対して阿古は、無邪気だった。

 一族のしがらみも、人の噂も、どこ吹く風。好奇心のままに動き、よく笑い、よく怒り、よく泣く。鷹人が心の奥に閉じ込めていた感情のすべてを、阿古は何のためらいもなく見せてくれた。


 その眩しさが、鷹人にはたまらなく愛しく、大切な、かけがえのない相棒だったのだ。



◇◆◇


 阿古と鷹人の出会いは、鷹人が数えで八つの頃のことだった。


 宇佐河(現在の大分県、駅館川)のほとりで、餌もつけずに釣り糸を垂れる――それが鷹人の日課だった。その日も、釣る気のない魚を、ただじっと待っていた。


 鷹人はこの時間が好きだった。きらきらと常に形を変えて輝く水面。せせらぎの音。ときおり頬を撫でる風。寝転べば香る草の匂い。空に浮かぶ雲の形――どれひとつ、鷹人をそしるものはない。この景色に溶け込めたなら、どれだけ幸せだろう――いつもそんな想いを抱いていた。


 その日も、確かにそうだった。


「ねえ、なにかつれた?」


 ぼんやりと川の流れを見つめていた鷹人は、突然の無邪気な問いかけに驚き、手にしていた棒切れの竿を思わず落としてしまった。


 顔を上げると、見慣れぬ小さな子どもが、まん丸な目でこちらを覗き込んでいた。布目の整った、下ろしたての麻の衣をまとった肌は、まるで日を浴びたことがないかのように白く、透き通っている。


 いぶかしげな鷹人の視線を、まったく気にする様子もなく、その子どもはニコニコと、返事を待ち続けている。


 鷹人は言葉を返さず、一瞥をくれただけで、落とした竿を拾い上げ、ふたたび釣り糸を水に沈めた。


 返事が返ってこないことに少し口を尖らせながらも、その小さな子は、鷹人の少し後ろにちょこんと座った。やはり何も釣れるはずもなく、二人は言葉も交わさず、ただ川のせせらぎと、風に揺れる葦の葉の音だけが耳に心地よく響いていた。


 釣れないと知りながらも期待させていることに、ほんの少し罪悪感を抱いた鷹人は、やがて沈黙を破った。


「いくら待っても、何も釣れないよ」

「そうなの?」

「ああ。餌をつけてない」

「エサ?」

「エビとか、ミミズとか」

「ミズ?」

「ミズじゃなくて……ミ・ミ・ズ! 知らないのか?」


 呆れ顔のまま振り返ると、その子は肩をすくめて、小さく「えへへへ」と笑った。


――これは、どこかの箱入り坊々ぼんぼんだな。


 鷹人は釣竿を上げると、立ち上がって尻の砂を払い、小さなに視線で「ついてこい」と合図した。


 少年は目を輝かせ、飛び跳ねるように立ち上がると、兎のようにぴょんぴょんと鷹人のあとを追っていった。


 鷹人は土手の木陰に来るとしゃがみ込み、その辺に落ちていた尖った石で地面を掘り始めた。

小さなは、まん丸な目でその様子を食い入るように見つめている。


 しばらくすると、土の中から現れたのは、五寸ほどのウネウネとうごめく生き物。鷹人はそれをヒョイとつまみ上げた。


 初めて見る光景だったのだろう。正体のわからぬ、その不規則な動きに、小さな少年の笑顔は好奇心に満ちていたはずが、途端にヒヒヒッと引きつった。


 その反応を見た鷹人の中に、これまで感じたことのない感情が湧き上がる。ニッと白い歯を見せて笑うと、つまんでいたそれを、小さな少年に向かってぽんと投げた。


 突然の攻撃に、少年は声にならない悲鳴をあげ、手足をばたばたさせながら尻もちをついた。その反応があまりに期待通りで、鷹人は誰にも聞かせたことのない笑い声をあげて、肩を震わせた。


「びっくりしたぁ……」

「ハハハ、悪い悪い」


 鷹人は、地面に座り込んだままの少年に手を差し伸べ、立たせてやった。そして、服についた泥を丁寧に払い落としてやる。


「お前、このあたりのもんじゃないだろ? どこから来たんだ?」

「ええと、あっちから」


 少年はそう言って、西の対岸を指さした。


「へえ、辛嶋から来たのか。珍しいな」

「めずらしい?」

「ああ。アッチの辛嶋と、コッチの大神は仲が悪いんだ」

「そうなの? どうして?」

「どうしてって……昔からそうだから、どうしてかなんて知らないさ」

「でも、姉さまは言ってたよ? あのお社は、なかよく一緒に建てたんだって」


 少年は、鷹居神社がある小高い杜を指さした。

鷹居神社は遥か昔、大神氏の始祖大神比義おおがのひぎと、辛嶋氏の巫女辛嶋勝乙目からしまのすぐりおとめが共に建てたとされる社である。


 確かに、その頃は仲が良かったのかもしれない。だが現実には、辛嶋と大神の関係は冷え切っており、子どもたちの間でも「用がなければ宇佐河は渡るな」と、年長者たちからきつく言い聞かされているほどだった。


 そんなことも知らず、のこのこと大神の縄張りにやってきたこの小さな少年――

 きっと、よほど大事に育てられた箱入りなのだろう、と鷹人は思った。


「そのあと、大喧嘩でもしたんだろうさ」

「そっかぁ。早く仲直りできたら、いいのにね」


 鷹人のいい加減な答えに、真剣な顔でうなずく少年の姿が、なんともおかしかった。その素直さが、妙に微笑ましく思えて、鷹人は少年に親しみを覚え始めていた。

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