序 和爾池の夜

 杜女は約束の日、和爾池のほとりの木の下に座って阿曽麻呂を待った。


 北風が凍るように冷たく、杜女は頭から毛皮を被り顔を埋めた。海の向こうの国から来たという獣の匂いが残る毛皮が好きではない彼女も、今日ばかりはその暖かさに救われていた。

 全て捨てる覚悟で和爾池に来た杜女にとって、寒さごときに気圧されている場合ではなかった。


 だが、美しい夕焼けの空に墨を溢したような暗灰色の雲が見る間に広がっていく様子に、杜女は言いようのない不安を覚えた。程なく静かに灰のような冷たいが雪が降り始め空を見上げる杜女の頬を濡らす。

 

 微かに見えていた生駒の稜線を闇が呑み込むと、寒さと闇は杜女の気力と体力を容赦なく蝕んでいった。水と陸の境界も曖昧になり、池に溶けていく雪ももう見えない。胸の高鳴りによって打ち鳴らされた早鐘が、不安の音に変わって大きく響いているように感じ始めていた。


 場所を間違えたのか、時が違うのか、彼に何かあったのか。それとも、見限られたのか……

 このまま誰も来なければきっと凍え死んでしまうだろう。


 手火もなく、暗闇ばかりが深くなり、肌に冷たい雪が張り付いては体温を奪っていく。だんだん全てがどうでも良くなっていき、次第に意識が薄れていった。


 ――そうか私は捨てられたのか。ならば、もうこのまま眠れば、きっと、もう、悩まずに……済む……


 薄れゆく意識の中で、聞き覚えのある声が遠くから響いている。その声が待ち望む声であればどれだけ良かっただろう。


「杜女! おい、杜女!」


 体を強く揺すられ、杜女は重い瞼をうっすら開けると、そこに松明を掲げ鼻を赤くした従兄の田麻呂が、眉を吊り上げて覗き込む顔が見えた。


 田麻呂は杜女の体にかかった雪を振り落とし、自らの蓑を被せて抱え起こした。


「……田麻呂? どうして……ここに?」

「どうしてじゃないだろう! お前こそ急にいなくなって、どれだけ探したと思っているんだ! 阿曽麻呂殿が和爾池わにいけの付近を一人で歩いている女性を見たと言っていたので、まさかと思ったが……」

「……阿曽麻呂、が?……」

 

 杜女には田麻呂の言うことがすぐに理解できなかった。なぜ待ち合わせをした男が、田麻呂に約束の場所を知らせたのか。その理由を考えた時、杜女の目から涙が次々に溢れ落ちた。


「もう大丈夫だ。ああ、でも本当によかった。阿曽麻呂殿が兎馬ろばを連れて池の反対をまわってそこまで来ている」


 田麻呂が指差す方を見ると、松明の明かりが遠くから近づいて来ていた。約束の場所を知っている阿曽麻呂は敢えて、近い方から田麻呂を向かわせて先に見つけさせるように仕向けたのだと杜女は察した。


 田麻呂は松明を大きく回し、合図を送ると向こうの松明も合図を送って急いで近づいて来ているのがわかった。


 杜女はふらつきながらも立ち上がり、その灯火を見つめた。耳と鼻は千切れそうに痛み、手足は痺れて感覚を失ったようだったが、そんな事は杜女にとって大した問題ではなかった。


 支えを失った感情は次第にサラサラと砂のように崩れて渦を成し、怒りや悲しみの激情を飲み込んで消し去り真っ白な虚無感だけが残った。


 息を切らせて駆け寄って来る阿曽麻呂を、杜女はじっと見つめた。


 阿曽麻呂は、杜女の姿を見るや一瞬安堵の表情を見せたように見えたが、すぐに膝をつき表情を隠すように深く頭を下げた。


禰宜様・・・、ご無事で何よりです」

 

 その言葉に、杜女のこれまでの想像が確信に変わった。阿曽麻呂のよそよそしさからは、田麻呂の前だからではなく、今後は杜女を宇佐八幡宮の禰宜としか見ないという強い意思が感じ取れた。


 阿曽麻呂は杜女を兎馬に乗せるため、片膝を立てて杜女の凍てついた手を取った。杜女はその手を強く握ったが握り返される事はなく、愛した男はまるで赤の他人のような顔で、目の前で俯いている。


「私の膝を踏み台にしてお乗りください」

 目を伏せたままの阿曽麻呂は、よそよそしく低い声を発した。杜女は靴を脱ごうとしたが、阿曽麻呂のもう一方の手が足に触れ、それを止めた。


「靴のままで大丈夫です」

 その言葉に従い、阿曽麻呂の膝に靴のまま足をかけると、阿曽麻呂は杜女をふわっと抱え上げ兎馬に横乗りに座らせた。ほのかに香るクロモジの香りが杜女の胸の奥を容赦なくえぐる。


「手綱は私が引きますので、鞍をしっかりお持ちください」

 阿曽麻呂は硬く握られた白く冷たい手から逃れるように鞍に導くと、くるりと背を向けて手綱をとった。膝に付いた小さな足跡だけが、そこに留まる事を許されている。

 杜女は無表情のまま、兎馬に揺られながら阿曽麻呂の背を見つめて、パチパチとはぜる松明の音を聞いていた。


 途中、田麻呂が何か話していたが杜女は上の空だった。別々の道をゆくべきなのだと幾度も幾度も言い聞かせ、恨み言を言わぬよう、泣き言を漏らさぬように、強く唇を噛み締めて空から溢れる雪を瞳に映した。息を吸うたび雪が混じる風が杜女の胸の内の熱い想いを冷やしていく。

 

 兎馬ろばが屋敷の前に止まると、阿曽麻呂がまた俯いたまま膝をつき、手を差し伸べる。差し出された手の震えの理由など、杜女には既にどうでもよい事だった。杜女がその手を取ると阿曽麻呂から一度だけ強く握られたが、杜女が握り返すことはなく、ストンと地に足を下ろし、スルリと手を解いた。

 膝をつき俯いたままの阿曽麻呂を見下ろしていたのは、宇佐八幡宮女禰宜尼めねぎに大神杜女だった。

 杜女はそっと阿曽麻呂の頭にかかった雪を払うと、冷たい音で微笑んだ。


「阿曽麻呂殿、あなたにも迷惑をかけましたね」

「……いえ」


 杜女は自らの簪を抜き取り、結い上げた長い髪を解くと、阿曽麻呂の目の前にその紅メノオの簪を差し出した。

 

「お礼にこれを」

「――! それは、……いただけません」

 

 阿曽麻呂はハッと顔をあげ、切ない顔をしてそれを拒んだ。

 それはいつか阿曽麻呂が杜女に贈った簪だった。

 

 雪混じりの風が杜女の長い髪が舞い上げ、今にも泣きだしそうな赤い瞳で満面に笑う顔を隠した。

 

「私にはもう不要のものです。どうか受け取ってください」


「……ありがたく」

 

 阿曽麻呂は震える手で簪を受け取ると、下唇に血が滲むほど噛み締めてまた俯いた。


 程なくして屋敷から侍女達が飛び出してきて、冷え切った杜女を屋敷へ引き入れた。阿曽麻呂はその様子を茫然と立ち尽くすように見つめていたが、杜女が阿曽麻呂を振り返る事はなかった。


 阿曽麻呂の隣に並んだ田麻呂が、阿曽麻呂と同じ方向を見つめながら、徐に抑揚のない冷たく低い声でつぶやいた。


「貴殿の冷静な判断、感謝します」


 阿曽麻呂は静かに首を横にふり、田麻呂に頭を下げた。

 

「道中のご無事を祈っております」

 

 田麻呂は阿曽麻呂の雪を払うように肩を叩くと、屋敷へ消えた。


 阿曽麻呂は兎馬に積んだ荷の位置を整えると、手綱を引き 雪が散華のように降る中、屋敷を後にした。一度だけ振り向くと眩しいものを見るように、淋しく目を細めた。


「杜女様、お元気で」



 翌日、杜女達宇佐の一行は帰路に就いた。

 見送る迎神使一団の中には阿曽麻呂を見つけることはなかった。

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