偽神託
乙鳥(つばめ)
序 散華
序 散華 一
――天平勝宝元年(西暦七四九年)十二月
北風に乗って、
豊前国・宇佐八幡宮の
誰もが羨む栄華の極みのなかで、杜女は心の奥底で「逃げ出してしまいたい」という衝動を必死に隠していた。彼女は、凛とした宇佐八幡宮の
そして、この大仏建立こそが、杜女にとって何よりも恐ろしく、耐え難い事だった。
鎮護国家の美名のもとに、神をも利用して手にしようとしている富と権力。
それは、一族の欲望と欺瞞の集大成だった。
その一員として、当然のように高貴な輿に担がれ、まるで神か帝のごとく座す自分自身に、杜女は深い嫌悪と軽蔑を抱いていた。
逗留していた屋敷から東大寺までの道中、幾度、気が狂ったように叫び、輿から飛び降りたくなっただろう。そのたびに、杜女は袖の内で己の手を強く握りしめ、出発前に触れた温もりにすがるように瞼を閉じた。
この紫の輿に乗る直前、あまりに高貴すぎる乗り物を前にして、杜女は思わず足をすくませた。
それは、普段そばに仕える侍女すら気づかぬほどわずかな変化だったが、大きな手だけは、その微細な揺れをすぐに察した。
その手は、杜女の冷えた手をそっと包み込む。
「大仏建立は、陛下の願い。国家の安寧を祈るその願いを、貴女が支えておられるのです。どうか、臆することなく、堂々とこの輿にお乗りください」
耳に響く心地よい低音が、杜女の瞳に光を宿し、触れた指先からは熱が巡り、青ざめた唇に花のような色が戻った。
彼女はその手を、強く握り返す。
その手は杜女を輿に導き、そっと腰を下ろさせると、名残惜しげに手を解いた。
そして、冠から垂れる玉の絡まりを直すふりをしながら、杜女の紅いメノウの
「この大役を果たされるまでの、ほんの少しの辛抱です」
夢か
号令だろうか。表の従者が何か大きな声をあげるが、何を言っているのか頭に入らないまま、目の前の
雅楽と読経の響く荘厳な空間に
女禰宜尼の顔をした杜女は、ゆっくり堂々とした姿で降り立つと、周りからため息にも似た歓声が湧き上がる。
強く握られた手のひらだけがお互いの心の裡を見つめあっていた。
東大寺の高僧らが杜女を迎えると、結ばれた手はもう一度だけ強く互いを確認し、指が愛しく撫でるように解かれた。そうして独りになった杜女の手は、温もりを閉じ込めるように胸の前で美しく合掌すると、再び周囲の歓声を呼んだ。 散華が舞う中を、杜女は高僧らに導かれて毘盧遮那仏の元へと向かった。大仏はまだ鋳造が終わったばかりで、これから大仏殿の造立を始めるのだと、所々にある盛り土や積まれた木材を指差して案内役の僧の説明に、杜女は表情こそ変えないものの、言葉を失った。
(ただでさえ、この大仏の鋳造だけでも、多くの命が削られ民は苦しみ続けていると聞く。この上、更に造立が続けられるのか……)
嫌でも目の端に映るとてつもなく大きな仏の後ろ姿。直視するには相当の覚悟が必要だった。
早まる鼓動を抑える深い呼吸、次第に顔が引き攣っていく。顔を隠す
どれだけ歩いただろう。途中どんな話があったかも微塵と覚えていない。
ただ分かるのは、そこに座っておいでなのは、この国で誰よりも高貴な方々と、遂に辿り着いてしまったという事実。
「
眼前の
――こちらを見よ
杜女は風の声にハッと空を仰ぎ見た。
晴天の寒空に
全てを見透かしたような仏の眼に、息が詰まり冷や汗が止まらない。
――過去の罪。
――今此処に立つ罪。
――多くの罪を背負ってなお、
――お前はこの先、幾つの罪を重ねていくのか。
誰にも聴こえぬ声が、杜女の裡で木魂のように執拗に責め立てる。【宇佐八幡宮女禰宜尼】の仮面が声の重圧に、ギリリ…ギリリ……と軋む。ついには体が次第に震え始める杜女の様子に、後ろで控えていた阿曽麻呂が堪らず飛び出さんとしたが、阿曽麻呂の隣に立つ神官が、太太しい笑みを浮かべてそれを静止した。
「田麻呂殿! 禰宜様の様子が……」
「なぁに、予定通りだ……いや、予想以上かもしれん」
田麻呂と呼ばれた若い神官は、動揺する阿曽麻呂を意に介さず、ブツブツと上気した顔でほくそ笑んでいる。
次第に杜女の異変に周りが騒めき始めた頃合い、田麻呂が一帯に響く声を上げた。
「神が、降りるぞ!」
北風に散華が再び舞い上がる。
崩れるようにガクリと膝をついた杜女は、そのまま赦しを請うように地に額を擦り付けた。
毘盧遮那仏に叩頭する女禰宜尼の姿は、八幡神の御心だと東大寺に来集する都人たちの心を強く打った。
一帯が奇跡に沸く中、阿曽麻呂だけが下唇を噛み、袖の内の拳を震わせ、空虚な空に佇む毘盧舎那仏を
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