常闇の神

 朝、夢から覚めたラビィは身支度を整えて部屋を出た。

(もう、ここに来て半年か)

 太陽神殿跡を改修した旧宿舎は石造りで隙間風が入る。新しい宿舎が建てられた時に警備手たちはみなそちらに移ってしまったらしい。ラビィが来た時、旧宿舎にはアトリしか残っていなかった。


「ここ、ファルージャが祀られてた神殿らしいよ。せっかくならご先祖様にならって、一人くらい祭壇を綺麗にしてあげる人がいてもいいかなって」


 そう言ってカルガルも説得したのだろう。規則の多い宿舎生活を避けて気ままに暮らすための方便じゃないかと同僚たちはからかっていたが、実際にアトリは休みのたびによく掃除をしていた。旅ばかりで掃除をしたことのなかったラビィに、部屋の掃除の仕方を一から教えてくれたのも彼だった。


 思い出したラビィは小さく笑ってオレンジ色の頭布トゥラを頭に巻く。戦杖を握って中庭に出ようとした時、ふと足を止めて視線を上げた。

(……声が聴こえる)

 昨日、収蔵庫で感じたものに似ていた。誰かに呼びかける、歌うような女性の声。決して不快ではなく、けれどどこか妙に胸に残る響きだ。

 旧宿舎を出たラビィは中庭ではなく、声に導かれるように細い坂道を下って石畳から外れた空き地の方へと向かった。日の差し始めた野には、カタバミの花が小さな黄色を点々と咲かせていた。


 雲一つない空の下、野を見渡したラビィの目が一点に留まる。

 見慣れない少年が一人、野の上に立っていた。

 ラビィは首をかしげる。彼がまとっている服は警備手の紺よりも深く濃い、黒色の長衣フーロンだった。

「あなた、誰? 街の人じゃないよね?」

 少年の側に寄ったラビィは、その顔をのぞき込んで驚きに目を見開いた。

 彼の肌は白く、フードに隠した髪は衣服にとけ込むように黒い。こちらを見た瞳は赤みを帯びた鮮やかな琥珀色こはくいろをしていた。


 少年がラビィの左のそでを両手で握った。何かを確かめるように目を伏せると、やがて小さな声で呟く。

「ラァナの、声」

「ラァナ……?」

「やっと会える、ここにいる」

 その言葉にはっとする。脳裏に、収蔵庫でアトリが語った物語が思い出された。

 自身の姿を一冊の書へと変えた銀星の女神ラァナ。彼女が呼びかけ、彼女との再会を願う存在は、この世界に一人しかいない。

「常闇の神、ウルベック?」

 小さくその名を唱えると、周りの空気が一段重くなった。朝日に伸びていた少年の影が不意にぐにゃりと揺らぐと、野の上を覆うように広がってゆく。


 野に降りていた鳥たちが一斉に飛び立つ。けたたましい羽音の中でラビィが空へと視線を移せば、鮮やかな青が不意に暗くかげりだした。視界の端で、昇ったばかりの太陽がじわりと闇に喰われてゆくのが見えた。

 不意に強く手を引かれた。見開いたラビィの瞳の中で闇は次第に深くなり、目の前の少年はぐんぐんと背丈を伸ばしてゆく。それが通常の大人の背丈をゆうに越えた時、ラビィの右手から戦杖が離れて野に落ちた。

 暗闇の中、少年だったものは長身の男へと姿を変えると、燃えるような赤い両眼でラビィを見下ろした。


『──ラァナは、どこに?』


 神性を取り戻したウルベックの声はぞくりとするほどに重い。耳から入ったその響きに心臓を掴まれる。目を逸らしたいのに視線を外すことが許されない。ラビィは唇を震わせるとかすれた声で答えた。

「先生の、収蔵庫……」

 ウルベックがラビィから手を離した。

 緊張が解けたようにラビィが野にくずおれる。心臓が思い出したようにどきどきと強く鳴る。うずくまったラビィを越して野を数歩進んだウルベックは、しかしすぐに足を止めた。暗闇の中、稲妻に似た小さな光がぜて彼の行く手を阻んだからだ。

 ウルベックは忌々しげに言葉を吐く。


『──ファルージャ』


 何かが彼をこれ以上街へ入れないようにしている。息を整えながらそれを見たラビィの脳裏に、ふと、ザサから伝えられた言葉が思い起こされた。


 ──ファルージャの嫉妬によってウルベックとラァナが別たれた時、常闇の民は誓ったんだ。いつか二人が再び出会う時、必ずその助けとなり恩を返す、と。


 ウルベックの気配が次第に薄れてゆく。ずっと神性を保った姿のままではいられないのだろう。ラビィは震える息をのみ込むと、顔を上げてウルベックに言った。

「ラァナの書、……私が、街の外まで持っていく」

 夕焼け色の瞳が振り返ってラビィを射抜いた。びくりと身がすくんだが、支える両手で地面を握って言葉を続けた。

「収蔵庫、私なら入れる。いつかラァナとの再会を助けるのが、常闇の民ウルベキアスの願いだから」

 わずかな間の後、ウルベックは瞳を閉じた。

 同時に、空から再び光がこぼれ出す。


『──明日、満月の夜に』


 息を吹き返した朝の野の中で、低いウルベックの囁きがラビィの耳に残った。同時に、遠くから自分を呼ぶ声と草を分けて進む足音が聞こえてくる。

「……ラビィ、大丈夫っ?」

「アトリ?」

 声のした方を向けば、制服姿のアトリがこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。

「今日は中庭の訓練、してないなと思って。どうしてここへ?」

「アトリ、さっきのは……」

「さっき?」

 アトリはきょとんと不思議そうに首をかしげる。もしかしたらラビィ以外には、いつもと変わらない朝の光景だったのだろうか。

 ラビィは言いかけた言葉をのみ込む。その顔をのぞき見たアトリが心配そうに言った。

「顔色が悪いね、今日は宿舎で休んでた方が良いよ。詰所には僕が伝えておくから。……運ぼうか?」

「……大丈夫」

 ラビィは目を伏せると、側に落ちた戦杖を支えに立ち上がった。アトリの視線から逃れるように重い足取りで旧宿舎へ歩き出す。


 常闇の神ウルベックのために、銀星の書を街の外に持ち出す。

 それは収蔵庫の主であるカルガルと、自分に居場所を与えてくれたアトリを裏切る行為なのだと。彼の顔を見た瞬間に気づいてしまった。

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