銀星の書

上杉きくの

収蔵庫と神話の書

 しんとした空気の中、歌うような声に呼ばれた気がした。

 伏せていた目を上げる。初夏とはいえ日の差さない部屋の中はやや薄暗く、吸い込んだ空気は少しだけひんやりと埃っぽい。天井の高い広めの室内にはぽつりぽつりと石像や壁画の断片が置かれ、壁際に沿うように設置された台の上には錆びた剣や宝飾品などが適切な間隔を保って並べられている。

 優しく心地良い声はそちらから聴こえるようだった。ラビィは音を立てずに壁の方へ近づくと、不思議そうに台をのぞき込んだ。


「それが気になるのかい?」

 しばらく眺めていると、後ろからおっとりとした声がかけられた。振り返ればプシカの街のたばね役、学者のカルガルが柔らかな微笑みと共にラビィを見つめていた。

「先生、これは?」

 ラビィの隣まで来たカルガルは頷く。

「これは、銀星ぎんせいしょ。別名をラァナの書という」

「じゃあ、これは本?」

 ラビィはきょとんとした顔で視線を再び台へと向ける。

 一目見た印象は、本というよりは木製の平たい小物入れに近い。黒くくすんだ木の表面にはオリーブの葉の彫刻が施されている。ラビィの頭布トゥラに付けているブローチと同じ意匠だ。


 カルガルが両手でゆっくりと木のふたを持ち上げる。中にはかさりと古びた紙が何重にも折り畳まれて収められていた。

「現存する、最も古い紙の書物だろうね。昔はじずに、こうやって読みたい箇所を広げていたんだよ」

 そう言って、カルガルは蓋を閉じると室内にいるもう一人を振り返った。

「さて、アトリ。この書には一体何が書いてあるのだっけ?」

「はい、先生」

 入口の側で欠伸あくびを噛み殺していた青年がカルガルの声にさっと居住まいを正した。ラビィと同じ警備手けいびしゅすそを揺らして二人の側に寄りながら答える。


「銀星の書には、常闇とこやみの神ウルベックと銀星ぎんせいの女神ラァナの物語が書かれています」

 カルガルは伸ばした白いひげに手を触れながら小さく頷く。続けるように促されたアトリは淀みない調子で言葉を重ねた。

「兄である常明とこあかり──太陽の神であるファルージャの嫉妬により神性を喪い世界を彷徨さまようことになったウルベックと、彼との再会を信じて自身を一冊の書物へと変えたラァナ。この書に記されているのは、そんな二神の悲恋をラァナの目線からえがいた物語です」

「そう、君たちのご先祖様たちにも深いゆかりのある神話だね」

 満足げな表情で微笑むカルガルの隣で、ラビィは不思議そうにアトリを見上げた。


 坂道を上った先にある街外れの収蔵庫しゅうぞうこから出ると、二人は近くに建つカルガルの屋敷まで彼を送った。

 彼は明日から隣町の会合に出かけるようで、そのため蒐集物しゅうしゅうぶつの点検を前倒しにしたらしい。構えた屋敷も街の中心からは離れており、束ね役と慕われていても、本人は静かに思索にふけるほうが好きな人柄なのかもしれないとラビィは思っていた。


 石畳いしだたみの坂道を下りながらラビィは深く息を吸う。午後を迎えたプシカの空気は暖かく、サクランボの爽やかな香りがかすかに鼻先に届いた。

「アトリが神話に詳しいの、意外だった」

 ラビィが隣を歩くアトリに言った。アトリは苦笑しながらラビィに目をやる。

「似合わないと思ったでしょ」

「そんなことない、すごいと思う」

 見上げた瞳にはきらきらとした尊敬の色が浮かぶ。アトリはくすぐったそうに肩をすくめた。

「先生に叩きこまれたんだよ。僕はあの収蔵庫、耳鳴りがするからちょっと苦手なんだけど」

 そう言って、アトリは足を止めると優しく目を細めてラビィを見下ろした。

「きっと先生、ラビィにも色々教えたくて仕方ないんだろうな」

「私にも?」

「あの人にとって、僕や君は生きた蒐集物みたいなものだからね」


 そう言ったアトリの外見は、たしかにプシカの街の住人たちと違う。

 薄明るい褐色の肌に、陽の光のような金色の髪。その瞳の色は白ブドウに似た薄い緑色をしている。かつて常明の神ファルージャの加護を受けたといわれる常明の民ファルジアス、その特徴を継いだ姿だった。


「それに、ラビィは女の子だからね。本当なら先生、警備手じゃなくて、研究助手としてラビィを雇いたかったんじゃないかな」

 ラビィは困ったように眉を寄せる。

「……アトリと一緒に、働きたいから」

 ぽつりと返された言葉に笑うと、アトリは歩幅を広げて歩き出した。細い石段を軽い足取りで下れば紺色の裾が大きく揺れる。驚いた顔で追いかけるラビィを振り返ると、アトリは明るい声で言った。

「ねえ、ラビィ。今日はもう非番だし、ご飯でも食べに行かない?」

「ごはん?」

「うん、ラビィは何が食べたい?」

 追いついたラビィはアトリの視線を受けて戸惑う。何かを決めるのは苦手だ。目を伏せながら小さく首を振った。

「何でもいい」

「じゃあ、ピタにしようか。鶏肉のやつ」

 にこりと笑うと、アトリはラビィを促すように坂の下に広がる街の中心へと向かった。


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