四 ③

 命拾いをしたのは良いが、問題は山積みだった。

「ところで、ここ、どこだろう……」

 霧栄青年は周りを見回す。どう見ても登山道ではない、山の只中の草藪である。たまたま開けたところであるだけで、決して人が通る道ではなさそうだ。森に囲まれ、道らしい道が見当たらないのがその証左である。

「荷物もどこかに置いてきちゃったみたいだし……スマホも電波入らないね……」

 出発前あれだけ買い込んだ荷物は襲撃の際にそのまま置き忘れる形になった。取りに行くには山道に復帰するしかないが、落ちてきた斜面は急勾配で、素人が道具なしで登攀するのは困難だ。ポケットに入れていたスマートフォンや財布はそのままだが、山中でどれほど役に立つことやら。

「ねえ、これって“詰んだ”ってやつじゃない?」

 俗に言う遭難である。

「いよいよ野営のチャンスですね」

「確かにこのままならそうなりそうだけど! そうじゃなくて、どうにか麓に下りるとか、助けを呼ぶとかさ!」

 霧栄青年の提案は残念ながら現実的ではない。電波が入らない以上は通報はできないし、いわゆる登山用GPSアプリを使おうにも、御乃賀美山はそれらのアプリに登録されていないのを確認済みだ。標高が低く、登山者からも人気のない山なのである。

 そして何度も遭難経験がある身から言わせてもらえれば、焦って無闇に行動を起こすほうが事態の悪化を招きかねない。

「何度もって……そんなの自慢できることじゃないよね?」

「はは……」

 呆れた眼差しを向けられる。普段であれば色々無茶をしてでも下山を試みるのだが、霧栄青年が隣にいる以上はそうもいかない。

「……あれ、そういえば兄口さん」

 と、何かに気がついたふうな霧栄青年。

「その目……」

 私の顔がどうかしたのか――と思ったが、そういえば眼鏡を紛失していたことを思い出した。

 ほとんど伊達眼鏡のようなものなので、視力には影響はないのだが。

「ああ……これ、昔事故で怪我をしまして」

 霧栄青年は訝しげに私の右目――正確には右目のあるべきところを見ていた。

 で眼球ごと喪失したそこを隠すために、前髪を伸ばしたり分厚いレンズの眼鏡を掛けているというわけだ。

「お見苦しいものをお見せしてすみません」

「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 さすがに怪我のことを深く突っ込むのは良心が咎めるのか、霧栄青年はそれ以上追及しなかった。とはいえ気になるのだろう、ちらちらとこちらを窺っている。面倒だ……だから隠しているのだけど、こうなるとわかっていれば眼鏡の予備を持ってきたのに。

 私は前髪を調整して右目を隠すようにしつつ、空気を変えるべく明るい声を出して喫緊の問題を口にした。

「うーん、そうですね。とりあえず今晩を明かすために食料でも探しましょうか」

 遭難で一番警戒すべきは飢えと渇きだ。確実な生還のためには最低限の食料を調達しなければ……最悪、それこそ昆虫でも食べる羽目になるか、と考えている矢先、がさ、と草が揺れる音がした。

「なにっ⁉︎」

 霧栄青年が驚いた声をあげる。私もまた“蟲”が出たかと警戒しながら音のした方を向いた。

 しかし――そこにいたのは。

「なっ……」

「なんだとっ⁉︎」

 なんで、という私の言葉を引き継いだのは、霧栄青年ではなく――姿を現したフルフェイスヘルメットの男だった。

「えっ、まさか……」

「なんで生きてるんだ、お前らっ……!」

 絶句する私たちに対し、男も驚愕した様子で硬直していた。服装からして間違いなく先程私たちを襲撃した男である。ヘルメットで表情を窺えないが、おそらく目を剥いて私たちを凝視している。そして、その手には私たちが持ってきていた鞄があった。

 ――なるほど。

「私たちの生死を確認しに来たわけですか。随分念入りですね。そんなにが心配でしたか?」

 私がそう言うと、男も霧栄青年もぎょっとした様子でこちらを見てくる。

「ど、どういうこと……」

「どうもこうもありませんよ、霧栄くん。このタイミングで現れて、まさか強盗や通り魔で私たちを襲いに来た無関係の悪人のわけがない」

 私は人差し指を男に突きつける。

 それが最も原始的な“呪い”の手法のひとつであるとよく理解しながら。

「ここ最近――いえ、十年間に渡って霧栄くんを監視していたのはあなたですね? 花西繁興かさいしげおきさん」

「――――」

 重淵に調べてもらった人名を口にすると、霧栄青年がひゅ、と息を呑んだ。




 重淵に調査を頼んだのは、主に三つ。

 ひとつは、芯張村大水害について、霧栄青年以外の生き残りがいないのか――正直、望み薄な頼みではあったが、重淵の調査力は予想以上に凄まじく、当時の新聞記事を発見してくれた。

 村に住んでいた三十代男性――水害の当日は仕事で村を離れていたため奇跡的に難を逃れた彼が、記者からインタビューを受けて村について語る内容だった。内容自体には特筆するものはなく、村について当たり障りのないことしか語られていなかったし、プライバシーに配慮してか、この男性の名前も伏せられていたが。

 そしてもうひとつは、霧栄青年が所属する配信者事務所がよく使う花屋の詳細だった。

 芸能事務所といえばフラワースタンドやら花束やら、何かと花に縁がある。ならば贔屓にしている花の小売のひとつやふたつ当然あるし、配信者の事務所であってもそのあたりの事情は変わりないだろう、と踏んだのだ。

 事務所がよく使う花屋で、霧栄青年の自宅からも遠くなく――霧栄青年へ花を頻繁に届ける業者があるならビンゴだろう、と。

 これはすぐに調べられたし、もちろん霧栄青年の住まう地区の担当者まで割り出してもらうことができた。

 花西繁興、四十三歳男性。N県出身で八年ほど前にその業者に就職したそうだ。

 ……あとひとつの調べごとについては、今は省略しよう。

「地元で花の卸売業をしていて、そのスキルを活かして今の仕事に就かれたそうですね。そして芸能事務所やらスタジオに花を届ける傍ら、霧栄くんを監視していた……」

 事務所に出入りしている業者であれば、ターゲットに警戒されることもなく近づくことができただろう。

 例のテディベアの他にもファンが贈ったように見せかけて花やプレゼントを贈り、その中に盗聴器などを仕込むのも難しくはない。

「さぞ不安だったのでしょうね。当時子供とはいえ、あなた方が行ってきた所業に肉薄していた彼がいつか真相に気づいてしまわないか。いっそさっさと始末してしまいたいくらい……」

 そしてついに、その日が来てしまったというわけだ。

 私たちを追って御乃賀美山に入り、隙を見て殺害――事件が起こればすぐに露見し警察の手が入る都内ではなく、滅多に人の出入りのない山中なら発覚の恐れもほとんどない。万が一見つかっても、登山中の事故死に見せかけられるだろうと。わざわざ私たちの荷物を持ってきたのも、滑落死に見せかけるために死体の周りに転がしておくつもりだったに違いない。

 よもや、とは思いもせずに。

「まあ、その目論見もこうして破綻したわけですが……どうします? 花西さん。また先程のように、私たちを鉄パイプか何かで滅多うちにしますか?」

 尋ねてみたが、男――花西は答えない。ぶるぶると震えているのは、怒りか、恐れか。

 このまま睨み合っていても埒が開かない。私は指を鳴らす。すると、花西の被っていたヘルメットが脱げ、地面に落ちた。

「なっ……⁉︎」

「……シゲおじさん」

 呆然と霧栄青年が呟く。やはり彼のことだったか。閉鎖的な村において、定期的に外部へ仕事をしている数少ない大人。彼が“生存者”である公算は高いと目星をつけていた。

「な、なんで……どうして……だって、おじさん……」

 混乱した様子で後ずさりをする霧栄青年。一方の“シゲおじさん”――花西は。

「あんなに、優しくしてくれて――」

「――黙れバケモノッ!」

 縋るように呟く霧栄青年を、花西は怒りと恐怖で赤くなった鬼のような形相で怒鳴りつけた。

「……ぇ、」

「何が燈籠様だ……何が神様だッ! ッ!」

 硬直する霧栄青年にさらに罵声を浴びせる。そこには“神”への敬意や畏怖は微塵も感じられない。

 に対する憎悪と恐怖は、否が応でも読み取ることができたが。

「さっさとくたばりゃあいいものを、何度も何度もしぶとく生き延びやがってッ……ふざけんじゃねえぞ、このクソガキが……!」

 花西は私に目もくれず、霧栄青年を睨みつけては口汚く罵る。あるいは今日に限らず、彼の殺害を試みたことが以前にもあったのかもしれない。

 ――しかし、それにしても。

 もっともらしい言い分でもあるのなら聞いてやろうと思っていたが――この様子では期待できそうにない。

 黒幕としてご登場いただいたのには感謝するが、早急にご退場願おうか。

「――そこまで」

 ぱん、と手を打ってアピールすると、急に静寂が訪れる。花西はやっと私の存在を思い出したのか、不審げな眼差しを向けてきた。

「あなたにとって霧栄くんが目障りな存在であることは、よくわかりました。ですが、どういう事情があったにせよ、巻き込まれたはたまったものじゃないんですよ」

「お前……」

 そもそも私が関わらなければこんなことにはなっていなかったと気づいたのか、私に対しても怒気を見せてくる。

 おかげでやりやすくなった。

「バケモノ……ですか。じゃあ、霧栄くんを殺そうとしたのは差し詰め“化け物退治”とでも? 結構、結構。人間じゃなければ良心も咎めませんね。あなた如きにできるのなら、いくらでも殺めればよろしい」

 できるものなら。

 さあ、やってみろ。

「……この野郎ッ!」

 挑発に容易く乗ってくれた花西は荷物を放り出し、鉄パイプを振りかざして私のほうへ走ってきた。

「あ、兄口さん!」

 霧栄青年が叫ぶ。呆気に取られたまま動けないらしく、硬直したまま。私は彼に微笑みかけると、そのまま無防備に花西の一撃を頭に受けた。

 石を投げつけられときよりも強い衝撃に襲われる。

「っ……」

 思わず倒れそうになるのをなんとか踏みとどまり、正面を向き直る。今の一撃で額が割れたか、鼻筋にどろりと血が一筋垂れてきた。

「その程度、ですか。やっぱり、どれほど悪事に手を染めても自分の手で人を殺すのは初めてでしたか?」

「ふざけやがってっ……!」

「ところで」

 なおも振りかぶろうとする花西に、私は言った。

「最近、体に痛みを感じませんか? 痺れたり固まったり、動きの鈍くなったところは?」

「はあ?」

 突拍子もないことを言われたからか、花西は虚をつかれた顔で動きを止めた。

?」

 感じているはずだ。

 私がそう仕向けているのだから。

「………………」

 案の定心当たりがあったのか、花西は黙り込んで自分の胸元を見た――胸元に居るモノを見た。

 蛇。

 西

「ああ――もうんですね」

「お、おい……」

 花西は今度は不安に駆られた表情でこちらを見る。よくよく表情を変える男である。

「居る、見えるのに触れない、存在しない――そんなモノにまとわり憑かれて、さぞ大変でしたでしょう」

 同情する気はさらさらないけれど。

「お前……これが何か、知って、」

 私は花西の言葉を待たずに言った。

「中国・四国地方に伝承される“憑き物”――要するに妖怪です。様々な伝承がありますが、主に中国地方では狐、四国地方ではの姿をした憑き物とされています」

 私が出逢ったのは、蛇だった。

 甕の中に閉じ込められた、小さな白蛇。

「概ね共通するのは、『憑いた主人に財を運び、主人に仇なす者を不幸にする』ことでしょうか。主人が妬んだり、嫌ったり、疎ましく感じている相手なは飛んでいく――」

 まあ、私の場合は少々条件が異なるのだが。

 爆発に石に鉄パイプ、としては十二分だ。

 私に攻撃を加えるたび、トウビョウの憑依はより強まっていく。

「ああ、命に別状はないのでご心配なく。ただあなたはこれからずっと、その蛇にまとわり憑かれたまま生きていくだけです。寝ても覚めても、病めるときも健やかなるときも」

 大したことじゃないだろう?

 人ひとりを利用し、尊厳も人格も無視して使い潰していたことに比べたら。

「……ふざけやがってっ!」

 さて、どうするかと様子を見ていると、花西は再び鉄パイプを振りかぶった。

「そんなの、お前が死ねば関係ねえだろうが!」

 なるほど、彼は私を始末することで憑き物が解除されると思っているらしい。

 実際のところはむしろ逆なのだけれど――私は嘆息しつつ、前髪を少しかき上げて右目を露出した。

「蛇」

 ずるり――と白蛇が右眼窩から這い出してくる。私の腕と同じくらいの胴回りに成長したそれは、めりめりと肉と骨を軋ませながら此岸に生まれ落ちた。

 トウビョウ――またの名を蛇蠱だこ

 器に依って飼われる呪い。

 は今、私の体を器としてとり憑いていた。

「ひっ……!」

 が見えたのだろう。花西は怯えたように足を竦ませる。は俊敏な動きで花西に近寄り、逃げる間もなく脚に噛みついた。

「ぐっ!」

「ああ、そうだ」

 痛みで動きを止めた花西に近づき、耳元に呪詛どくを吹き込んだ。

「あなた、こんなところをうろうろしてて大丈夫なんですか?」

 呪いというといかにも大仰だが、世間に思われているほど大したことができるわけではない。

 ただ――にさせるだけ。

 加齢による心身の不調とか、確証のない胸騒ぎとか、誰かに見られているように感じる不安だとか。

 そんな原因もない不確かなに、“呪い”というタグをつけて紐付けてしまう。

 気のせいも錯覚も、すべてが誰かの意思による攻撃として認識をすり替えてしまう。

 相手に“呪われた”と感じさせる――それが呪いの本質だ。

「おがみむし」

 私の放った言葉に、花西はびくっと肩を跳ねさせた。

「奴ら、まだこの山にうじゃうじゃいますよ。不用意に出歩いて、うっかり出くわさないといいですね」

 ――ぎちり。

 森の中に潜む彼らの気配――その顎を鳴らす音。

 どうやら花西の耳にもそれが届いたようだった。

「っ……!」

 花西は狼狽えたように周りを見ると、やがて木々の間に“何か”を見出したらしく、顔を恐怖に歪ませた。

 

「や、やめろ! 来るなっ!」

 半ば腰砕けで後ずさりをし――よたよたともつれる足であらぬ方向へ走り出す。

 木々の中を走る彼の後を追うように、ぎちぎちと顎を鳴らす音がしばらく響いていた。

 が私を見上げる。にたりと笑うように口を開けると、私の体を這い上って右眼窩へと潜り込んでくる。

 みし、みしと頭蓋が軋む音を聞きながら、私はため息をついた。

「……よし、なんとか一難去りましたね」

 顔に垂れてきた血を拭いながら言うと、霧栄青年がはっとした顔になってようやく硬直から解けた。

「な、何が起こったの? なんかシゲおじさんが…………」

「………………」

 彼にはどうやら“蛇”は見えなかったらしい。

 当然のことだが、ほんの少し寂しさを覚えた。

「さあ――ちょっとだけ助言をしただけですよ。昔選恵さんから聞いたんですが、この山、化け物が出る噂があるんですよね?」

 化け物の噂を教えたら、怖くなって逃げたんでしょう――そう言うと、霧栄青年は腑に落ちない顔で頰をかいた。

「そう……なの? でも……シゲおじさんとは、もっとちゃんと話をしたかったな……」

 あの凶行を見てそんなことが宣えるとは、呑気なのか心根が優しすぎるのか。言いたいことをぐっと堪えて、「それより、僕たちは僕たちのことを考えないと」と言っておく。

「……あ! そうだよ兄口さん、その血! あんなにぼこぼこ殴られて、大丈夫なの⁉︎」

「全然平気ですよー。ちょっと額が割れちゃっただけですから」

「それ全然平気じゃなくない⁉︎ 顔が真っ赤になってるよ⁉︎」

 そう、本当に平気なのだ、私は。

 ――

 ただ、そう言ったところで彼にはまったく通じないだろう。私はいつものように能天気な笑みを浮かべて誤魔化した。



 ◆◆◆



「――呪詛」

 兄口誘太郎と拝霧栄のいる位置から数十メートル離れた森の中。彼らを眺める二対の目があった。

「蠱毒を使うたのう、あの小僧」

「正確には、彼自身が蠱毒そのものですが」

 ひとりは、黒いセーラー服を着た少女。

 もうひとりは、同じく黒色の詰め襟を着た少年。

 喪服のごとく黒を纏ったふたりのは、兄口誘太郎を注視していた。

「呪詛遣いの小僧はさておき、“神もどき”のほうは始末しても良かろ? アレは既に異形じゃ。おまけに呪詛遣いと絡むのであれば、早々に対処しなければ面倒なことになるぞ」

 古風な口調で喋りながら、少女はいやに長い爪を兄口たちに向ける。しかしそれを少年が制止する。

「判断は“兄さん”に仰ぐべきです。それに、アレははたして僕たちの手に負えるものか。いたずらに手を出して状況を悪化させたら兄さんが悲しみます」

「……回りくどいのう」

 半ば呆れたように言いながら少女は引く。詰め襟の少年は無表情ながら、満足そうに頷いた。

「彼らが動くようだ。僕たちも行きましょう。兄さんの耳目として」

「うむ――」

 兄口たちが動き出したのを見て、少年たちも行動に移る。

 

 人間ではありえないほどの跳躍力、俊敏性を以て、二体の式神は兄口たちを追尾した。

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