第2話 誰にも見せない涙

 7月の終わり。蝉の鳴き声が朝からけたたましく、東京の空はじっとりと白んでいた。


 テレビ局のスタジオ収録から一週間後、中山美穂は渋谷のレコード会社のレッスン室にいた。鏡の前で、何度も同じステップを繰り返す。リズムに乗れず、振りが遅れ、講師に小さく叱られる。


 「美穂、そこ、また遅れてる!左の入りが違う!」


 「……すみません。」


 声が上ずる。息が上がり、足は鉛のように重い。


 周囲には、同じような年頃の女の子たちがいた。誰もがキラキラして見えて、でもその瞳の奥には、ライバルを見据える鋭さがあった。美穂はその中で、なぜかひとり、輪郭がぼやけていくような気がした。


 (わたし、ここにいていいのかな……)


 レッスン後、トイレの個室に入って、美穂はそっとバッグからハンカチを取り出す。涙がこぼれるのがわかっていた。鏡の前では泣けなかった。誰にも見られたくなかった。


 泣きながらも、ふと思い出したのは、あの控室での小泉今日子の笑顔だった。


 あの人は、本番直前も余裕そうだった。スタッフに軽口を叩き、他の出演者にも気さくに話しかけ、現場の空気を柔らかくしていた。あんなふうになれたら、と何度も思った。でも──


 (きょんちゃんも、きっと泣いたことあるよね……)


 涙を拭いてトイレを出たとき、携帯電話のない時代。連絡の手段は固定電話か、事務所を通じた伝言だけだった。


 数日後、美穂が事務所に顔を出すと、マネージャーが言った。


 「小泉さんから伝言が入ってたよ。“美穂ちゃん、元気?またごはんでも行こう”って。」


 え?と声が出なかった。あの忙しい中、覚えていてくれたことが、ただ嬉しかった。


 その週末、青山のカフェでふたりは再会した。


 午後3時、店の奥のソファ席。薄暗い店内、壁には小さなギターやレコードが飾られていて、ジャズが静かに流れている。今日子は、サングラスを外しながら手を振った。


 「おつかれ、美穂ちゃん。レッスン、頑張ってる?」


 「……うん。まあ……なんとか。」


 「ウソ。顔に書いてある。」


 苦笑いしながら、アイスティーを飲む今日子。彼女の“見抜く力”は鋭い。美穂は目をそらす。


 「でもさ、泣いてもいいと思うよ。ここはさ、“普通”じゃない世界だから。」


 「……うん。」


 「この仕事、楽しいだけじゃやってらんないでしょ?“誰かの前で泣かない”って思ってる時点で、もう頑張ってるよ。」


 優しさと、少しだけ哀しさが混じった声だった。


 「でもね、忘れちゃいけないのは、“自分がいちばん自分の味方でいなきゃ”ってこと。」


 「……それ、難しいよ。」


 「そう。だからこそ、アイドルって、実はすごいの。」


 その言葉を、美穂は何度も噛み締めるようにうなずいた。


 「じゃあさ、ご褒美あげよっか。」


 「え?」


 「いまから一緒に原宿行って、クレープ食べて、──写真撮って、服見て、アイドルじゃない私たちを楽しもう。」


 いたずらっぽく笑う今日子に、美穂は思わず吹き出した。


 それは、“先輩”ではなく、“お姉ちゃん”のような時間だった。


 小泉今日子。テレビの中のアイドル。だけど、現実の彼女は、それ以上に繊細で、思いやり深くて、でもしっかりと“生きている”。


 その日、美穂の心にまたひとつ、灯がともった。


 ──この人のように、生きてみたい。


 ──どこまでも、正直に、まっすぐに。


つづく

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