第18話 昭和58年、セナという名前

「見ろよこれ。凄い新人がいるってさ」


 職場の給湯室。

 同僚の野口が持ってきた一冊の雑誌を開いた。


 『AUTOSPORT 1983年4月15日号』

 発売日は1ヶ月前の3月15日だ。


 野口はコーヒーをすすりながら、ページを指さす。


「ほら、エアトン・セナ・ダ・シルバ。ブラジルの若者だ。まだF3にも上がっていないのに」


 写真の中には、まだ少年のような若さを残した男が写っていた。

 白いレーシングスーツ、切れ長の目、細い肩。

 ただ、その目だけが、どこか獣のような光を宿していた。


 広報担当者のコメントが、大胆に活字になっていた。


「彼は来年F1に上がり、5年以内に世界チャンピオンになることを宣言します」


 部屋の隅に置かれたラジオから、ふと音楽が流れた。

「Ya Ya(あの時代ときを忘れない)」だ。


「♪ ああ もうあの頃のことは夢の中へ」


 岡部誠一は、そのメロディに一瞬だけ心を持っていかれた。

 懐かしくも悲しい旋律。

 かつての青春がふいに顔を出すような、そんな歌だ。


 彼はページの写真を見つめたまま、小さく語りかけた。


 そうだ。

 君はやがてF1に上がる。

 そして奇跡のようなレースを見せる。

 ホンダ・パワーを得て世界チャンピオンになる。

 それも、3度も。


 だが、その先にあるものは誠一だけが知っている。


 1994年のイモラ。

 セナはあのサーキットの事故で散った。

 世界中が沈黙した日。

 そして祖国ブラジルでの国葬。


「でもまあ、どうせF1なんか金持ちの道楽だよな」


 野口の声にふと誠一は我にかえった。


「そもそもF1はテレビ放送すらしていないし……」

「レースでは100分の1秒を争っているのに、俺達が結果を知るのは1ヶ月後だもんな」


 同僚たちは、まだ何も知らない未来について、笑いながら話していた。


 誠一は、何も言わなかった。

 言うべきでもなかった。


 自分だけが未来を知っているということは、語れない悲しみを持つということだ。


 この時代の人たちは、まだ「セナ」の名前を知らない。

 彼の伝説も、彼の死も……これから起きるのだ。


 だが、そのこれからがあるからこそ、

 今この瞬間の無垢な会話が、美しく思えた。


 忘れてはいけない時代。

 語れない記憶。

 誰にも教えられない予言。


 彼は、椅子に腰を下ろしながら、ひとつ深く息を吸った。


 そして、仕事に戻った。

 静かに。

 なにもなかったふりをして。


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