放課後タイムリープ

hekisei

第1話 五十円玉とお好み焼き

 岡部誠一おかべ せいいちの定年から約1年が経った。

 サラリーマン生活を40年以上続け、総務の人事課長として社内の人間関係に気を使い、何度も胃薬に頼った日々。

 60歳で役職定年、その後は再雇用で5年間、半分の給料で働く。

 とうとう65歳で完全に会社を離れた。


 今は小さなワンルームに一人暮らし。

 年金と少しの貯金。

 テレビの音だけが聞こえてくる部屋。

 誰にも頼られず、誰にも期待されない暮らしは次第に飽きが来る。


 ある日、誠一は母校をふらりと訪れた。

 平日の昼下がり。

 特に目的もなく、バスに乗って自分の通った高校のある町に降り立つ。

 商店街の顔ぶれは少し変わっていた。

 坂道の角度や、川沿いのベンチの位置は昔のまま。


 校門には「桐見高校 校舎建て替えのお知らせ」と書かれた立て看板。

 敷地の隅には、既に工事用の仮囲いが立っている。


 それでも旧校舎の裏手、倉庫になっているあの場所は健在だ。

 近づくと、鉄のドアがひとつだけあった。

 くすんだ銀色、取っ手は少し曲がっている。


「昔、ここにこんな扉あったかな……」


 岡部はなぜか、そのドアに手を伸ばした。

 扉を開けると、ギギ……という音が重く響く。

 中には誰もいない。

 教室のような、そうでないような空間、埃の匂い。

 不意に眩しい光が差し込んだかと思うと、景色が一変する。



 気がつくと古びた商店街の通りを歩いていた。

 風鈴の音、夕立のあとでぬれた地面。

 人通りは多く、活気がある。


 駄菓子屋の前に、うつむいて佇む少年。

 小学校の3、4年くらいだろうか。

 暑そうな顔で、何も買わずに立ち尽くしている。


 誠一は思わず声をかける。


「どうした、迷子か?」


 少年はぽつりと答える。


「お母ちゃんに、晩御飯、自分で食べてこいって。五十円だけくれて」


 手のひらには、銀色の五十円玉が一枚。

 指に汗が滲んでいる。


 パンを買うか、牛乳を飲むか。

 それでも足りない気がして決められない。

 そんな様子。


 誠一はちょっと考えて、言う。


「じゃあ、おじさんと一緒に、お好み焼きでも食べないか?」


 少年、驚いたように目を見開き「いいの?」と小さく返す。


 二人は歩いて近くにある小さなお好み焼き屋に入った。

 女将さんが「おや、また見慣れない人だね」と声をかける。


 熱々のお好み焼きが鉄板の上でジューッと焼ける音。


 誠一はビールを1杯。

 少年にはラムネ。

 遠慮しながらも、少年はモリモリとお好み焼きを食べる。

 顔に笑顔が広がっていく。


「こんなにおいしいの、食べたことない!」


 誠一は特に何も語らず、ただニコニコと見ている。

 少しだけ、自分の子供時代が重なるような感覚。


 ふと壁をみると昭和44年のカレンダーがかかっている。

 タイムリープしてしまったのか!

 その事実を誠一はすんなり受け入れられた。


 勘定を終え、外に出る。

 なぜか財布の中の千円札は伊藤博文に変わっていた。

 でも全部で300円もかからなかった。


 日は傾き、空気は少しひんやりとしていた。

 少年は「ごちそうさまでした!」と深々と頭を下げる。

 そしてポケットからハンカチに包んだ五十円玉を取り出す。


「あの……これ。さっきもらったやつ、使わなかったから」


 誠一は手を振って笑った。


「いいんだ、取っとけ。なんかの時に役に立つかもしれん」


 少年は一瞬、驚いたような顔をする。

 やがて安心したような顔で五十円玉をまたハンカチに包み直した。


「うん。じゃあ……ありがとう、おじさん!」


 少年は手を振りながら商店街の角を駆けていく。

 風鈴の音が、また小さく鳴った。


「なんか、ちょっとだけいい気分だ」


 誠一はしばらく空を見上げた。

 自分の手のひらには何もない。

 けれど、漠然とした幸福感が心に残っている。



 気がつくと誠一は母校の鉄のドアの前に立っていた。

 時は令和だ。


「なんだったんだ、今のは。でも……まあ、いいか」


 そう思って自分を納得させた。

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