9
夏の昼下がり。
一台の黒塗りの自家用車が、九曜邸に入っていった。
車のナンバープレートの地名は松本。長野方面からの客だった。
「東京は暑いですね」
白地に青い花が散った柄のワンピースと、麻のサンダルを履いた女性が出迎えの九曜職員に話しかける。
「諏訪の方は涼しいから、大変だったでしょう。ま、どうぞ中へ」
「ありがとう」
通り抜けた風が、女性の長い髪を揺らす。癖のない、張りのある髪は、風にあおられて乱れた。
「風がいたずらしてますね。いい風だわ」
「《神木の巫女》様は気の利いたことを仰いますね」
出迎えた女性の名は、佐々木良篠。九曜家では《薬師》とよばれる特殊な薬剤師だ。
「ううん。本当のことを言っただけ。それにしても、良篠さん、お久しぶりです」
「ホントに久しぶり。静音さん」
静音は、かつて世話になった由木家の次女、佐々木良篠に笑顔を向けた。
良篠は、由木家の次女だったが、訳あって父方の姓である佐々木を名乗っていた。由木家自体は、姉の孜子が失踪してから、三女で末娘の美鈴が嗣いでいる。とは言っても、姉妹仲は極めて円満なので、良篠は実家によく帰っていた。静音とはそのときの縁で、親しい友人になっていたのだ。
良篠は、客用の和室に案内する。洋室の用意もあったが、静音が和室を希望したからだった。
「やっぱり、九曜家は広いですね。賀正会の時はこっちまでこないから、なかなか実感としてわからなかったけど」
「ホントにね。邸内は、止められない限り自由に歩き回っていいから。ただ、不思議な方がお一方ほどいらっしゃるんだけど、その場合は会釈でも何でもしてやり過ごして」
部屋にはいると、良篠は滞在中の注意をしてくれた。
「不思議な方?」
「歩様。珠子様のご母堂で、お心がちょっとね。危険な方ではないのだけど、あの方の行動を制限することは、物理的に不可能なの。《通し》の技を使われるので」
「《とおし》?」
「物体を通り抜ける能力が《通し》。これは多分、推測の域を出ないけれど《繋ぎ》の技もお使いになれると思うわ」
《繋ぎ》は空間歪曲のことだ。AとBという離れたところにある空間をさも隣り合わせであるかのように繋げてしまう技が《繋ぎ》の技だ。
「だから、閉じこめておくのは、無理なの。ご当主である司様もそれでよいと仰るし」
静音は困り果てている良篠を見た。
「大丈夫よ。それより、軒の向こうにある棟は、主に《要》が使っている部屋だから、叫べば、九曜の最精鋭が飛んでくるわ。……たとえ、虫に驚いたくらいでもね」
いたずらっぽく良篠は笑う。
「ここの女性は虫くらいでは悲鳴を上げないから、新鮮でいいんじゃない?」
他にも湯殿がどこで、食事がどこだとか、体調を崩したときはどうするだとかと言うことを細々と良篠は静音に教えた。
「珠子様には貴女が着たことは伝わっているはずだから、夕方ぐらいにお声がかかると思うわ」
「わかったわ。何を着ていけばご無礼にならないかしら。《神木の巫女》の正装は持ってきてはいるけど」
珠子とは、九曜珠子のことを指した。当代の九曜家当主九曜司が次代の当主に指名した、九曜家の次女である。
「そのままでもいいと思うわ。珠子様は気さくな方だから、仰々しい格好だとかえって気を遣われると思う」
「そう。わかったわ」
「お会いしたことのないやんごとない方に初めてお会いするのは緊張するのはわかるけど、貴女も《神木の巫女》なんだし、格としては同じなんだから気にすることはないわよ」
《神木の巫女》は、負うものが負うものだけに、九曜直系と格が変わらない。それは静音も熟知していることだ。しかし、これだけ大きな屋敷にお姫様としてかしずかれている珠子と自身が同格だなどとは、なかなか思えるものでもなかった。
そもそも静音が上京したのも、珠子の依頼があってのこと。それを蹴ることもできたが、あえて受けたのは、東京の九曜家に出向けば、省吾に会えるかも知れないと考えたからだった。
――そうそう上手くいく筈もないけれど。
静音は考える。
自らが《神木の巫女》であること。
省吾が、椿の当主になる未来が決められていること。
そして。
この恋は実らないことを。
――想うだけなら、いいよね?
《神木の巫女》の勤めが辛いときは、幸福だった記憶を思い出す。
その記憶のどの場面にも省吾はいた。時には困ったような顔をして、時には笑ってくれた。その記憶だけで、静音は満たされた気持ちになることができた。
――思い出だけで、生きていける。
そこまで、静音の恋心は研ぎ澄まされ、ガラス細工のように透明なものになっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます