第一章 私が選んだ婚約破棄③

    ***


 宮廷の使用人たちの手で丁寧に磨き上げられて輝く大理石の床と柱。中庭の巨大な庭園には、宮廷庭師によって厳しく管理された季節の花々が一つ一つ優雅に咲きほこっている。特に、中央の噴水を囲んで咲き誇る薔薇は圧巻だ。多くの人間によって計算しくされたこの宮殿は、巨大帝国にふさわしい完璧な美を誇っている。

 パトリシアは迷うことなく回廊を歩んでいくが、その足取りは重かった。だが、行かないという選択肢はない。パトリシアはアレックスが住むローズ宮へとやってきた。

 文字通りさまざまな薔薇が咲き誇るその宮には、アレックスお気に入りの庭がある。みずがめを持つ女性をした白い彫刻から水がこぼれ落ちる噴水の前に、アレックスの目当ての女性が佇んでいた。

「……本当にこんなものでいいのか? 新しいものを用意することもできるのに」

「これがいいんです! アレックス様からいただけるのなら、なんだって嬉しいので!」

 二人は互いの手をぎゅっと握りしめながら見つめ合っていた。その姿ははたから見れば仲のいい恋人のように映るだろう。実際、そうなのだけど……。

 アレックスが見つめる女性の名前はミーアと言う。奴隷の身分でありながらもアレックスに気に入られ、今や彼の侍女となっている。

「……アレックス様」

「──……パトリシア、君か」

 これ以上は見るにえないとパトリシアが声をかけると、アレックスは苦い顔をした。逢瀬を邪魔されたせいか、はたまた浮気現場を見られたからか──。どちらにしろ、その表情に胸の奥がズキッと痛んだけれど、表情には出さぬよう努めた。

「アレックス様、これから皇帝陛下にえつけんを」

「パトリシア様!」

 アレックスにともに行くか聞こうとしたが、それをミーアがさえぎった。彼女は嬉しそうに桃色の長い髪をなびかせて近寄ってくると、同色の大きな瞳を輝かせた。

 そんなミーアをいちべつしたパトリシアは、自分の表情が硬くなったことに気が付いた。着ているものは侍女たちと大差ないのに、その細部に違和感を覚える。首元には光り輝く大きなダイヤモンド、手首には純金のきやしやなブレスレット。頭に着けているリボンも、よく見れば昔パトリシアが着けていたものと似ていた。

「パトリシア様はなぜこちらに? ……あ! アレックス様に会いに来たんですか?」

「…………ええ、そうです」

 人の言葉を遮ることは失礼なことだと何度も伝えたが、わかってはくれない。ほかにも彼女には礼儀作法をいくつか教えたが、覚える気はないようだ。ミーアはなにが嬉しいのかにこにこしながら、手に持っているハンカチをパトリシアの前に広げた。

「見てください! アレックス様からいただいたんです。この刺繍が綺麗で気に入ったんです!」

「……そう……ですか」

 平静を装い、言葉に詰まらないようにしたかった。でもその刺繍を見た瞬間、思わず体に力が入ってしまう。なぜなら、彼女が嬉しそうに持っているのは、パトリシアがアレックスを想って刺繍をほどこした、青い薔薇のハンカチだったからだ。

 驚きつつアレックスを見ると、彼はただ気まずそうに視線をらした。

「これ以外にもいくつかいただいたんですけど、どれもこれも綺麗で……。私みたいなかわいそうな人にこんな綺麗なもの似合わないと思ったんですけど……」

「欲しかったので」と笑うミーアにパトリシアはなにも言えなかった。彼女がアレックスのものを欲しがり、彼がそれを与えるのは、今に始まったことではない。たとえそれがパトリシアから贈られたものだとしても、彼は与えてしまう。

 彼いわく、かわいそうなミーアが欲しがるものはなんでも与えたいとのこと。

 アレックスの手に渡ったものに、とやかく言う権利はない……そうとでも思わないと、この胸はずっと痛み続けてしまう。そっと左手で唇を押さえつけ、大丈夫、大丈夫と心の中で言い聞かせていると、目の前にいたミーアがぽうとパトリシアの手元を見つめてきた。

「…………綺麗」

「え? 今なにか言っ……?」

 聞き取れなかったつぶやきを聞き返した瞬間、ミーアは突然パトリシアの左手を掴んできた。

「アレックス様! 私もこの指輪がしいです!」

「──なっ!」

 パトリシアは慌てて左手を右手で覆い隠すが、ミーアのキラキラと輝く瞳は真っ直ぐに指輪へと向けられている。

「パトリシア様! その指輪はどこで買われたんですか? 私もそれと一緒のものを……」

「あれはだめだ」

 詰め寄るミーアを止めたのはアレックスだった。彼はミーアの肩を掴むと首を振った。

「あれは私とパトリシアが婚約した際に作った婚約指輪だ。ほら、私も着けている」

「婚約指輪? ……いいなぁ。私にはアレックス様とおそろいのものなんてないのに」

 まるでれんな花がしぼむように落ち込んでしまったミーアを、アレックスは必死になだめる。

「君に似合うものを必ず用意させる。こんなものよりもっといいものだ。だからそれで許してくれ」

 そう言いながらミーアを抱きしめるアレックスは気付いていなかった。ミーアの瞳がパトリシアの左手に釘付けになっていることを──。

「……っ、皇帝陛下への謁見の時間ですので、失礼いたします」

 パトリシアは軽く頭を下げると、逃げるようにその場をあとにした。

 怖かった。ミーアのあの目が……。全てを奪われてしまいそうで、背筋がぞっとした。小刻みに震える手を押さえつつ、左手の指輪を見つめる。大丈夫。これさえあればアレックスとつながっているとわかる。今はこんなふうになってしまったけれど、いつか必ず昔のような関係に戻れるはずだ。

「……大丈夫」

 ──そう、自分に言い聞かせた。

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