夜の向こうの、もっと向こうに

森田田根子

第一章 夜の向こうの、もっと向こうに

第1話 クジラ

「六歳のころからお利口さんに学校に通って、勉強ばっかさせられて、受験戦争にも打ち勝って、さて華のあるキャンパスライフの幕開けだって、どいつもこいつも夢ばっか見ている。俺もあんな風に気楽に生きてみたいよ。体験入部でイキり散らして一年の女にばっか手を出す三年のベーシストみたいに」

「軽音部の体験入部、結局行ったのね、どうだった?」

「ロックンロールの精神論を忘れて、酒と一年女のことしか考えてない頭の悪い連中の集まりだった」

「なるほど。じゃあツッキーの言う『ロックンロールの精神論』って何なの?」

「分かりきったことさ。音楽に捧げる情熱、もっと言うなら、この腐りきった世の中を音楽の力で変えてやるんだって思えるくらいの果てしない音楽への愛情」

「それ、私はツッキーの問題だと思うけどね」

「俺、間違ったこと言ったか?」

「間違ったことは言ってないよ。でもきっとその主張は、昔あったことへの否定的な感情が生み出しているコンプレックスみたいなものじゃない?」

「何が言いたい?」

「だから高校のときのこと、まだ気にしてんのかって言いたいの」

 秋ははっきりと言った。高校二年のときに同じバンド組んでから四六時中つるんで、昔からこんな風に頭でっかちで利口な奴だったから、物事の本質を見抜いてはズバズバと切り倒して、各方面から誤解や恨みを買うような変な女だ。

「今さら、そんなことどうでもいいさ」

 秋と俺は境遇が似ている。秋は中学のときに吹奏楽部でいじめに遭って不登校になっていた。俺は高校のときに部活を追い出された。意識が高すぎてついていけない、一緒にいたら皆の輪を乱すらしい。

 入学式が終わった直後に、俺たちはクラス分けを発表されて、クラスごとに教室に集まって親交会をやろうという段取りだった。普段の秋はシワだらけのシャツ一枚を着て、寝癖を生やしながらコンビニで三食を済ませるようなズボラな女だけど、今日はいわゆるリクルートスーツに身を包んで、髪には光沢の艶があって、ばっちり化粧もして、唇の赤がよく生えて吸い込まれそうになるくらいだった。

「親が来ているの。親孝行だと思って張り切った」

 秋は言った。俺にはそんな親はいない。いつも通り遅刻ギリギリで家を出て、適当にスーツをあつらえて家を飛び出したから髪もボサボサ。なんだ大学デビューでもしてんのかよって秋に茶化すように言ってみたくなった。色々な奴らが俺を見捨てていったけれど、秋まで遠くに行っちまったら悲しいから。

 同級生はみんな眩しい笑顔をしている。そりゃそうだ。念願かなってこの大学に入って、親とか縁戚に見守られて祝われているんだから普通は喜ぶよな。なんで、あんなキラキラした顔ができるんだろうな。俺は今後の人生が不安でたまらなくなってるっていうのに。第一志望の大学ではあれど別に絶対に入りたかった訳でもないし、たまたま勉強ができたからよかったけれど、大学に行かないと就活のレールに乗りづらいなとか、人生の選択肢が減っちまうんだろうなとか、そんな保守的な理由で大学に進んだだけのつまらない男なんだよな俺は。だから将来何がしたいとか、どうなりたいとか、夢とか目標とか、志とか全部どっかに置いてきちまって、いっそ死にてえなあとか思いながら毎日びくついて生きている臆病者でしかないし、とんでもない不孝者で、社不でクソ野郎の自分なんだよな。

「じゃあ、私クラス行ってくる」

 秋はそう言って去っていった。その肩の辺りまで伸ばした髪はやや茶色に染まっていて、てっぺんまで昇ったお日さまの光を受けて呼吸して生きているみたいに輝いているし、俺もあんな風に輝いてみたいけれど、結局は高校のころから何にも変わらないし、秋が先に進んでいっちまう気がしてちょっと凹む。まあいっか。それでも俺はひとりで気怠く生きてんだろうな。ああクラス会ってだるいな。行きたくないけど、同調圧力とか面倒だし。でも結局行くんだけどな。


   ※


 高等教育推進機構とかいう早口言葉みたいな建物の、階段をふたつあがって右隅にある教室が51組の集合場所だった。教室にはもう十数人の男女がひしめいていて、みんな清潔感のある身なりをして、化粧して、中にはカラードレスなんか着ているやつもいて、ついこの前まで高校生だったなんて思えないようなお洒落な奴らばっかりだった。一応クラス会にも段取りがあって、ひとりずつ自己紹介をさせられた後、フリートークタイムがあって、色々な人と話してクラスの交流を深めようっていう無駄な時間があって気が滅入った。最終的に集まった三十人のうち、五人は一番輝いて見えて、十人ちょっとは派手に目立ちはしないけれど、慎ましくクラス会を楽しんでいて、一人とびきり馬鹿をやって皆を楽しませる奴がいて、残りはそれぞれ小さな派閥に分かれて会話を楽しんでいて、独りぼっちになって教室の隅で座っている奴なんて、俺ともう一人、あの窓際の席に座っているよく分からない女くらいだった。

 その女、どうしようもないくらい美人だった。

 高校のとき、中古だけどギブソンのレスポールのギターを担いでは、マイクの前で世界平和とか意味の分からないことを叫び、秋をはじめバンドメンバーを存分に振り回し、唐突にディストーションを掻き鳴らしてはPAに怒られたり好き放題やっていた。自分がそれなりにカッコよくてイケてるって、今思えば死ぬほど恥ずかしい勘違いもしていたから、学年の可愛い女子に告白を迫ってはうまく躱されて、でも躱されたことにも気付かずに愛情表現をし続け、ラブソングを作って披露したら死ぬほど引かれていじめられたこともあった。それが怖くて、大学に行ったら波風立てずに慎ましく過ごそうと思っていた。

 だから、どんな風に声をかければいいか分からなかった。正確には声をかけて、拒絶されることが怖かった。気になって仕方なかったけれども。

 そうこうしている間に、キラキラしている集団の金髪のチャラそうな男が美女に話しかけてしまった。あの男、見た目はイキっているくせに顔の造形はたいして綺麗でもないし、なんだか昔の自分を見ているみたいで恥ずかしくなる。そして、男が何を言っても美人は一言も発することなく、観念した男はそそくさと立ち去ってしまった。男の方に視線は向けるくせに、口を閉ざし続けていた。

 なんだあいつ、面白い奴。

 事の顛末をもちろん俺以外の多くのクラスメイトが見ていた。みんな不可解な顔をして、あの美人、なんで喋らないんだよって顔で見ている。美人はきょとんとしている。よっぽど天然なのか、共感力が低いのか、美人だからそういう失礼な態度が許されてきたのかとも思った。だがしばらくすると何かを察したように俯いて、頬杖をついて、窓の外をぼうっと眺め出した。その仕草を見ると傲慢な人間には思えなかった。それから、あの美女に声をかける奴は一人とていなくなった。美女の目はどこか曇っていた。消えない悩みの種でも抱えているようだった。

 俺も、美女が見ているのと同じ窓の外の景色を見てみる。だだっ広いキャンパスは緑で覆われていて、眼下にはメインストリートが広がり、自転車に乗った活気のよい大学生が行き交っていた。

「あのさ、どこ出身なの?」

 クラスの男が話しかけてきた。よく見たら、さっき美人に話しかけて玉砕していた金髪の男だった。後ろではいわゆる一軍男女らしいグループが、じっとりした目で俺たちの方を見ていた。ああ、『初日からクラス全員に話しかけてみた』的な企画をやっているんだろうな。

「出身は東京です」

「そうなんだ。高校のときは何してたの?」

「何もしてないよ」

「じゃあ帰宅部ってこと? 今まで何にもしてなかったの?」

 失礼なやつだと思って視線を前に戻すと、美女がこちらを見ていた。一瞬その目があったとき、俺は咄嗟に口を開く。

「なあ、お前はどこ出身なの?」

 そして俺は、男を払いのけるように席を立つと、前方にいる美人の方へとずけずけ歩いて声をかけた。この金髪男との会話を早く切り上げたくて席を立ったことが、逆にクラス中の視線を集める羽目になってしまう。まあでも、皆んなからジロジロ見られるのには慣れてるし、それよりも近くで見るとこいつは本当に美人だったから色々とどうでもよくなった。細いのに輪郭のしっかりした眉と、長いまつ毛に彩られた二重瞼の大きな目。長く艶のあるストレートの黒髪に、黒いニットに覆われた細いスタイル。何よりも掴み所のない雰囲気はまさに魔性で、見れば見るほど、同じ人間かと疑ってしまうほどの格の違いを思い知る。

 そして、美女はやはり俺を無視するのだった。そのくせにばつの悪そうな顔をして頭を下げるから、極度の人見知りなのだろうか。そうだとしても断りの言葉のひとつくらい入れろってんだ。結局、恥だけかかされて俺は席に戻る羽目になった。それからは誰とも話すこともなく、時間を食い潰して初日の登校を終えた。


   ※


「あんた何にも変わってないね。また見た目はいいけど悪い女に捕まって色々貢がされるよ。そろそろ学習しな?」

 帰路、秋に電話した。道脇にまだ溶けきってない汚い雪がある。もう新学期だっていうのに、なんて街に来ちまったんだ。

「でも、なんか同じ匂いがしたんだ。仲良くなれる気がしたんだけど」

「どんな匂いよ。鼻ひん曲がってんじゃない?」

「そうかもな。にしても、返事ひとつよこさないて酷くない? 話しかけてんだから、せめて『はい』とか、『うん』くらい言ってくれって」

「あんた自分が思っているほどカッコよくないんだし、たいして魅力もないんだから、自分の価値をわきまえずに女捕まえようとしたって上手くいかないから」

「もうちょっと言葉選べないのかよ?」

「私、あんたのこと思って言ってんだけど? あともうひとつ、その女には近づかない方がいいと思うよ。人のこと無視するとか最低だからね。とか言いつつ、結局女に目がないから、どうせ私が忠告したって無駄でしょうね」

「俺をなんだと思ってんだよ」

「あほ」

 クラスで二次会があるからと言い残して、秋は一方的に電話を切った。なんだあいつ、初日から友達作りやがって。学校の前に広がるだだっ広い四車線の横断歩道を越えて、しばらく南に進んだ。横断歩道のこっち側は学生の下宿と飲み屋がひしめき合っている。似たような名前の下宿やらマンションが多くて、俺の下宿はサザンプレリュードとかいう名前だった気がするけれど、とにかくサザンから始まるマンションが多すぎるし、無駄に碁盤目状に街が整備されているせいで、むしろどっちの方角に進んでいるか分からなくなる。おなじ北十三条西三丁目の区画の中でも迷う、いやマジの話で。

 通りのずっと先に駅の建物が見えた。それで、あっちが南だってことが分かる。なぜなら駅は地図の下の方にあるから。そして、俺はようやくサザンプレリュードに辿り着いた。

 新しめの鉄筋コンクリート造り、ここが俺の下宿。

「ん?」

 エントランスに入ったとき、ひとつの後ろ姿を見た。なぜか見覚えがある。女だ、でも秋にしては背が高いし、髪が黒いし、でもこの土地で、俺が見知っている女なんて秋の他にはいない、とか考えているとピンときた。黒いニットに黒いジーンズ、葬式にでも行くのかよというくらい真っ黒なその女。しかしその黒々とした雰囲気はたまらなく美しくて、思わず息を呑みたくなるくらい、いい女。俺より一足先にここに来て、エレベーターを待っているこいつも、同じこのサザンなんとかの住人なのだろうか?

 エレベーターが一階まで降りてきて、美女が乗り込む。振り返ったときに俺と目があった。『さっきはよくも無視してくれたな』とか脅してやろうかとも思った。もちろん茶番のようなもので本気じゃねえけど。しかし俺が女を茶化す前に、ぎょっとして、ちょっと泣きそうな顔でこっちを見やがったから、なんだか脅す気も失せてむしろ困ってしまった。そんな顔するくらいなら、最初から無視するような態度とるなっての。しかし何回見てもいい女だ。俺の身長は一七二センチだけど、女の頭のてっぺんがちょうど俺の目のあたりにあって、すらっとしていて、肌が白くていい匂いがして、清楚を絵に描いたような端麗な容姿で、そんな美女とエレベーターで二人きりになってしまったとき、俺が散々馬鹿にした軽音部の三年男子と、キャンパスライフに浮かれているアホどもと、所詮は俺も同じ生き物なんだと思い知る。

「あんた、ここだったんだな」

 俺が話しかけると、この女は俯き気味になってやはり返事しなかった。もはや呆れに近い感情が生まれていたから、別に無視されたとて何も思わない。エレベーターはあっという間に俺の部屋のある六階に到着してしまった。九階のボタンが光っているから、こいつの部屋はきっと九階にある。こんな美人を学生どもは放っておかないだろうし、あの三年男子みたいな奴らが死ぬほど知りたがるであろう、この美人の住処を俺は誰よりも早く知るに至ったのだから、それだけでも優越感が湧いてくる。『じゃあな』と心の中で挨拶をして、俺はエレベーターを出ようとした。しかし、ここで予想外のことが起った。美女が俺の袖を掴んで、エレベーターから出そうとしなかった。

 戸惑って声も出なかった。ひとまず閉まりかけるエレベーターを腕で抑えながら、俺は美女へと向き直した。そのとき美女は、俯いたまま一枚の紙切れを俺に差し出した。

『私、喋れないんです』と、そこには書いてある。

 はあ、と思った。呆れる方じゃなくて、戸惑う方の『はあ?』だ。そんな大事なこと、もっと早く言ってくれよと思って、いや喋れないなら言えないよな、仕方ないよなと思い至る。とにかく俺は戸惑った。こんなに困ったのは久しぶりだ。ドアの開いたエレベーターの中で、美女に袖を掴まれながら『私、喋れません』ってデカい告白を受けているのだから。そんな中、美女がまた紙切れを差し出した。『これLINEです、よろしくお願いします。』っていうゴシック体の文面と、その下にLINEのQRコードが書かれてあった。なるほど自分が喋れないから、事前にこんなものを用意していた訳だ。別に、俺に失礼を働いていた訳じゃないんだ。

「後で連絡します」

 畏まった返事してしまった。エレベーターをずっと止める訳にもいかないから、潔く降りて美女を九階へと送り出す。それから俺は、廊下を小走りで抜けると部屋に入り、ベッドがまだ組み立ての最中なので、雑に敷いたフローリングの上にダイブするように寝転がった。それから寝返りを打つように左右へ何度か転がると、美女からもらった二枚の紙をまじまじと見つめて、十分に余韻に浸ったところで、スマホを取り出してLINEを開いた。

 LINEに一通の着信があった。秋からかと思ったけど違い、「ケンコー」という名前のアカウントからだった。そういえば軽音部の体験に行ったとき、一人だけ話の合う奴がいた。もっさりした丸い体型のくせにクルクルのパーマを当てて、ピチピチのロゴ入りTシャツを着て、他の奴らが清潔感のある容姿をしている中で、汗臭そうな一昔前のオタクみたいな容貌のやつが。しかし言っていることはまともで面白くて、『俺はこの世界にある全部の楽器を弾いたことがある』とか、『総額百万以上するレコーディング機材を全て自腹で揃えている』とか意味の分からないことを言っていたから、なんだか話が弾んでLINEを交換したっけ。

 ひとまずこのケンコーからの連絡を完全無視して、美女から貰ったLINEのQRコードを読み込む。そういえばこっちはQRコード貰ったけれど、向こうは俺のことを認識していないよなと思い、ツッキーというアカウント名を本名の『成瀬月彦』に直してからQRコードを読み込んだ。そして『しず』というアカウントが出てきたから速攻で追加した。

 そのときケンコーから追いLINEが来た。『履修登録を一緒にしよう。ついでにあのときの話の続きをしよう』と。今はお前の気分じゃないんだよ、ケンコー。

『初めまして、同じクラスの成瀬です。下の名前が月彦で、ツッキーって呼ばれています。先程はありがとうございます。お互い新入生ですが、よろしくお願いします』

 当たり障りのないLINEを送ってスマホを閉じた。こういう関係って大学四年間ずっと続くものなのか、あるいは半年もしたらお互い忘れ去ったみたいに疎遠な関係になるのか。分からないけれど、この美女との関係はずっと続けていきたいと願ってみる。

 ケンコーからまたLINEが来た。位置情報だ。もうしつこいっての。しかも、ここ俺の下宿からすぐに行けるところじゃん。そんなにお呼ばれなら暇だし言ってやろう。履修登録とか、バイト探しとか、仲間がいれば心強いし。それで疎遠になったらそのときだし、人間関係なんて所詮は利害関係だから、お互いがお互いのことを必要としなくなれば、自然とこいつとの仲も疎遠になっていくだろう。

 帰ってきたままの服装で外に出た。流石にスーツは邪魔だし恥ずかしかったからジャケットは脱いで、高校の夏服みたいな服装で家を出た。

 エントランスを抜けると広いアスファルトの道路が横切っている。この街は四車線が当たり前で、そこには雪国特有の事情がある。道路の向こう側はどこまでも続いていて、あっちの方向に走り続ければ、いずれ空を掴めるのではないかと思うほどだった。これも碁盤目状に街が整理されたからで、空が広いとなんだか心にまで余裕が生まれてくる心地がして、俺はこの街で見る空が好きだ。カラスにでもなってこの街の空を羽ばたいてみたいと思う。もう日は西に傾きかけていて、ファジーネーブルはまだ早いけれど、ちょうど青と橙の狭間にあるような空模様だった。スマホでマップを開きながらケンコーに指定された場所へ向かう。もう四月だってのに風が強く吹いている。ジャケットを着なかったことを後悔しつつ、スーツで出歩くくらいなら着ない方がマシだと思う。どうせ室内は暖房が効いていて暖かいし。そういえば下宿にも教室にも、見たことない細長い管みたいな何かが部屋の端っこに取り付けられていたけれど、あれって新型の暖房器具なんだろうか。

 結局、俺はまだ大学沿いに戻ってきていた。受験の時に泊まったホテルが目の前にあって、まさにその通りにケンコーから指定された場所があった。『エルム亭』というその建物の外観はいたって普通のレストラン。ケンコーにLINEすると「すぐ行くよ」と返信があって、間もなく図体のでかい、パツパツのスーツの男が店の奥からぬるっと姿を現した。その醜い身体に俺は吹き出しそうになったが、ケンコーの髭を蓄えた顔面とパンチパーマのコンビネーションを見て、いよいよ吹き出した。

「何笑ってんの成瀬月彦くん」

「いや、お互い酷い服装だなと思って。てかケンコー、なんで俺の本名」

「さっきLINE見たときに名前が変わっていたから。ツッキーっていうから苗字だと思うじゃん? 名前の方から来てたんだね。てか新学期だからってLINEの名前を本名に変えちゃってさ、何ちゃっかり新生活スタートダッシュ的なことしようとしてんの? 体験入部のとき俺と情熱的な音楽の話をしたツッキーはどこに行ったのさ。三年男子の変態どもに憧れちゃったの?」

「いいから。とりあえず席まで案内してくれ」

 こいつは特級の変人で、秋もそうだけど、俺の周囲にはどうしてかこういうヘンな人間しか集まってこない。そして、この大学には特に、頭のネジが外れた連中が多い。ケンコーは迷惑なことに四人掛けのテーブル席に一人で腰をおろし、見た感じ特盛クラスのハンバーグ定食を平らげている真っ最中だった。そのとき店員さんが来たので、俺はメニュー表を見ながら、そんなにお腹が空いていなかったので普通のチーズハンバーグ定食を注文した。というか、ライス、サラダ、スープ付で九八〇円ってまじか。今のご時世においては破格の安さで、それだけでもここに通いたくなってしまう。

「ここ学生御用達のレストランなんだ。右にも左にも学生がいて、サークルとか部活の集会とか、ご飯とか、この店に学生の絶えない日はない」

「よく知ってんな、お前」

「僕の情報網を甘く見ないでほしいね。反政府主義団体の決起集会とか、学校転覆とか、都市伝説にすぎないけれど、そういう危ないやりとりもここで行われているんだって。ちょうど今から六十五年前、日米安保の時代……」

「もういいから、あのときの話の続きをするんだろ?」

「ああ、そうだった!」

 窓の外にはでかい道路があって、その向こうにキャンパスの緑が見える。道行く学生たちはみんな清潔感に溢れていて、文字通りキラキラしている。世界の汚い部分なんて何も見知らぬような顔で歩いている。俺と、こいつの周囲だけ周りから隔絶されているみたいだ。清潔感の欠片もない、髭を蓄えた丸い顔面とパンチパーマのだらしない奴と過ごすキャンパスライフを送るために遥々ここへ来た訳じゃないけれど。俺も同じ井戸の中に住む、こういう水加減が丁度いいような人間なのだろうな。

「僕ね、DTMサークルに入ることにしたよ。DTMって知っている? デスクトップミュージックの略称なんだけどね、要するにパソコンで音楽を作ったり、レコーディングとか曲を編集する技術を磨くようなサークルでね。バンドもいいけれど、もう僕は世界中の楽器が弾ける訳だし、バンドやってても新しいことを得られる訳じゃないからさ、並のバンドマンができないことをやってみたくなってさ。そういうツッキーはどうなのさ? あんだけ音楽を情熱的に語ってたんだから、大学でも何かしら音楽やるんだろ?」

 俺、そんなにこいつと情熱的な話したっけ? 記憶にないんだけど。こんな変な奴に目を付けられるようなこと言ったっけ? てか、こいつは本当に話を始めると止まらないな。

「でも高校のときは音楽やってたんだろ? ギタボ(ギター&ボーカル)やって、意識高すぎて、周りとそりが合わなくなって辞めたって言ってたよな。俺からしたら、ツッキーとそりが合わなかったやつら全員、音楽に大した情熱なんてなくて、女子にモテたいとか目立ちたいとか、そんな不純な理由だけで音楽やってるような浅はかな奴らなんだから。そりが合わなくたって当然だよ。で、どうなの?」

「正直今は考えてないな」

「自らの音楽人生に、小さな休符を打つってわけね」

「そんなところだ」

「いいと思う。休符もまた音楽なんだ。決して停滞じゃないよ」

 音楽は好きだ。高校に入って一本のギターを持ったときに、俺の人生は目まぐるしく変わった。それまでは惰性で日々を過ごしていたのに、ギター一本に夢中になって、死ぬほど練習を重ねて、もちろん思うように弾けない自分に苛立ちもするけれど、いざ舞台に立って音を掻き鳴らしてみると、練習の辛さとか、毎日のストレスとか、抑え込んでいた感情とかが溢れ出して、何にも代えがたい快感に変わる。そして仲間と一緒に音を重ねて、ひとつの感動を生み出すことが俺の生きがいになった。調子に乗って部活を追い出されるまでは。

 店員さんがチーズハンバーグ定食を持って来てくれた。そのデカさに驚く。なんだこれ、メニュー詐欺じゃねえか。向かいでケンコーがにんまり笑ってやがる。『いい店だろ?』って言いたそうな腹の立つドヤ顔だ。ああ最高に良い店だよ。ちくしょう。

「じゃあ、ツッキーはしばらく帰宅部ってことね」

「やりたいことが見つかったら何かしらやってみようと思う。あと四年はあるし」

「そうは言っても、四年なんてあっという間に過ぎていくじゃん? そんで社会人になったら、いよいよ社会の奴隷歯車として懲役四十年ちょっとの刑罰に処される。刑罰というかは肉体労役だけど」

「そう言われると恐ろしくなっちまう」

 俺の将来って何だろうか。ずっと考え続けていて、まだ答えが出ていない。高校のときにミュージシャンっていうひとつの夢が見つかった気がした。でも俺より歌も、ギターもうまい奴なんで腐るほどいる。夢だけ語ってんじゃねえぞ自分って諦めた。才能の上澄みしかいねえ音楽の世界に飛び込んでいって、死ぬまでそれで食っていけんのかと言われれば答えはノーだ。てか夢なんて全部そうじゃん。俺らが見ているのは一部の天才の所業で、そこばっか切り取って夢を語る。汚い部分が見えてないんだ。あるいは自分が凡人だと気づきたくないから、みんな夢をべらぼうに語って現実から逃げてんだよな。

 将来が見つからないまま歳を食った。このまま適当な会社に就職して、四十年間の労役に従事して適当に死ぬのかな。それは嫌だな、なんか。でもそうするしかない。やりたいことが見つかってる奴って本当に凄い、尊敬する。

「ケンコーは、将来やりたいことあんの?」

「無いに決まっているじゃん。強いて言うなら金儲けだね。パチンコ、競馬、何でもいいから一発当てて億万長者になって、豪遊しながら過ごしたいねえ」

「計画性も実現性のまるでなしだ」

「そうは言っても、何もかも計画的に動くのも面倒だし、いちいち先のこと考えて生きてたら人生何にも楽しくないよね?」

「俺は、ある程度は考えて動きたいけどな」

「でも、その姿勢じゃ夢を掴めないよね。世の天才が成功する要因として、もちろん才能は欠かせないと思うけれど、それよりも大切なのは衝動性というか、途方もない計画性のなさというか、そこだと思うけどな。大学受験だってどんだけ頭の良いやつも、どっかしら試験を受けないと合格、不合格って結果は分からないわけで、逆にたいして頭の良くないやつでもさ、五回くらい同じ大学受験したら一発くらい受かるかもしれないわけで」

「試行回数は確かに大切だな」

「まあ、中には自分の頭の悪さを自覚しないで高みばっかり望んでいる滑稽なやつもいるけれど。そういう奴は五回、十回受けたって受かりっこないよな。はは、それがいわゆる才能とか、努力とかって呼ばれる部分だよね。持って生まれた能力プラス、自分のステータスを上げるための時間投資の合計数値」

「自分のステータスを上げつつ、衝動性も大切。でも生きていくためには堅実に働いて、月に百六十時間は最低でも働いて、給料貰わなきゃいけない。なんか矛盾してるよな」

「だから人生って難しいのさ。だから、その矛盾を突き破ってでも成功できるやつって、やっぱ天才なんだよなって思うね」

 先のことを考えたら人生なんにも楽しくない。でも先のことを考えないと生きていけない。てか楽しむって何だ。なんで俺は人生楽しめてないんだろう。それに比べてこいつは、いいな、こいつならきっと大学八年生とかになっても平気な顔でキャンパスライフを楽しめるんだろうな。デブでアホでろくな取り柄もないのに人生楽しそうだし、結局はポジティブに受け止められる奴が人生楽しめるんだろうな。てかデブでアホってどうすんだよ。終わってるじゃん。俺もそうだけど、こいつ、ちょっと危機感持った方がいいよな。

「食べきれないならハンバーグ頂戴よ」

「すまん、ちょっと頼むわ」

 平気で人のハンバーグをごっそり持っていきやがる。そんなこいつがちょっと好きだ。

「そういえばツッキー、この前ベース買ったんだよね。フェンダーのジャズベなんだけど。カスタムショップの」

「は? カスタムショップ?」

「そうだよ。これ、ほら恰好いいだろう」

 ひび割れたスマホ越しに、木目のきれいな、焦がした茶色のボディが見えた。所々装飾が剥げていて、きっと年代物なんだろうな。

「おい何万したんだよ、これ、めっちゃいいやつだぞ」

「中古で買ったから三〇万くらいかな」

「四月からよくそんな金かけたな、貯金は?」

「ないに等しいから、来週は朝から深夜までバイト三昧だね。しばらくは節約しなきゃだけど。ということで飯代おごってくれない?」

「お前、汚いぞ、まじで」

 そして俺は飯代を奢った。こいつのアホっぷりには心底呆れる。でもこういう部分が衝動的ってやつなんだろうな。だとしたら、世の中の成功者は全員こいつみたいな気質があるってことだ。勘弁してくれよ。ろくな奴じゃねえじゃん。

 今度ベースを見せる代わりに、俺のギターを弾かせてくれとケンコーにお願いされて渋々承諾した。店を出ると日中とは比べ物にならないくらい冷え切っている。こんなに温度差があるならジャケット持っといた方がいいな。

「じゃあな、お前家どっちなの?」

「こっち。ツッキーも?」

「うん、じゃあ途中まで一緒だな」

 秋から『今晩うち来ない?』ってLINEが来ていた。ケンコーがスマホを覗いて、「もう女作ったのかよ」とか言う。

「高校のときの同期だよ。腐れ縁」

「そういう、腐れ縁とか言ってるやつほど過去に何かあるんだよね。つまりツッキーとその女は過去に色々あって、今もひょっとしたら何かあるかもしれない関係なんだよね?」

「アホか、違うわ」

「いいなツッキーは、割とハンサムだからモテるんだろな。僕にはそういう女いなかったから。過去に付き合ったのも一人だけだし」

「お前に彼女いたのかよ」

「それなりに付き合ったよ。半年くらい。『他に好きな人ができた』って言われてフラれたが。ああ駄目だ、なんか思い出したら泣けてくる」

「お前、ドンマイ、今度話聞いてやるよ」

 ケンコーはしゅんとして引っ込んだ。そして下宿について俺たちは解散した。


   ※


「突然、呼び立ててごめん」

 一旦パーカーに着替えて、秋の下宿に来ていた。今どきの女子大生の下宿はセキュリティも万全で、部屋もそこそこ広い印象があるけれど、こいつの下宿は六畳一間の典型的なアパートみたいでちょっとボロい。秋は桃色の、もこもこのパジャマを着ていた。どすっぴんだし、髪は朝と違って無造作だし、なんか、俺の見慣れた秋だなって思った。

「この家、雪が積もったら崩れるだろ」

「大丈夫みたいよ。大家さんが毎朝雪かきしてくれるんだって」

 部屋は綺麗に整頓されていて、奥から一番窓側にシングルベッド、その次に丸くて小さな机があって、部屋に入ってすぐ右の手前にキッチンが、左にバスルームがある。机には既に飲み物とグラスが二つ置かれていた。酒かと思ったけれど、炭酸水とぶどうジュースだった。俺たち、まだ飲めないからな。

「クラスどうだった?」

「普通。何の変哲もないただのクラスだね。どうせ履修科目はみんな違う訳だし、クラスで何かするって訳でもないから、どうでもいい」

「でも五月にクラス対抗の球技大会やるんでしょ?」

「知らなかった。そんなのやってどうすんだって思うけれど」

「本当に、そんなこと考える人たちってどんな魂胆で企画するんだろうね。そんなに仲良ししてほしいのかな。私たちだって子どもじゃないんだから、友達くらい自分で見つけるし、さして付き合いたくない人たちと強制的にくっつくよう仕向けられることの方がストレスだよね。友達なんて所詮は利害関係で成り立つものなんだから」

 珍しく秋が毒を吐く。

「どこの世界にもお決まりってのがあって、球技大会とかもそれなんだろ。とりま、これでも飲めや。お前の方こそどうだったんだよ、クラスは」

「雰囲気はいいと思うよ。二次会にも行く気になったし、女の子で話せる人もできた。でも三次会に行くときに、馬鹿な男子が調子のって『居酒屋に行こうぜ』とか言い出したから、呆れて帰ってきた。大学生は羽目を外すもんだとか勘違いしている連中もやばいし、それに付いていく女もやばいと思うし」

「どいつもこいつも受験で抑圧されてたから。予備校で缶詰になって、競争に晒されて、そりゃあ頭のネジの二本くらい吹っ飛ぶ」

「まあ、確かに大変だったからね。本当に」

 葡萄ジュースに口をつけて、秋は静かに息を吐いた。

「ツッキーは、どうしてこの大学を選んだの?」

「そうだな。ぶっちゃけ言うと理由はないさ。学力的に丁度いいなって思ったから。大学選ぶ理由なんてそんなもんじゃね?」

「学力的に丁度いいって、ツッキー、高三の夏でみんな頭爆発しそうな時期に、予備校にも行かずにギター弾いたり、ふらふら遊んだり、ライブハウス行ったり、本気出したらもっと上の大学だって余裕で行けたし、何が丁度いいよ、安パイだったくせに」

「余力残して受かるくらいが丁度いいんだよ。みんな張り詰めすぎなんだって」

「でもあんたは頑張らなさすぎ。のらりくらりやって学年十番くらいって、羨ましいにも程がある。凡才がいくら頑張ったって、生まれ持った才能のある奴には勝てないんだって、あんたと成績競って本気で絶望した」

「一回スタジオに誘ったら、バカにしないでって本気で怒られたよな。今それどころじゃないって」

「当たり前でしょ。死ぬほど勉強してたんだから。そんなこと言われたらキレる」

「俺はあのとき張り詰めすぎていたお前を心配してたんだよ。朝から晩まで死ぬほど勉強して、お前の笑顔をあんまり見なくなった気がしていたから、久々にスタジオでも入ってさ、ギターとかベース弾いたら気晴らしになるかなって」

「本当、アホなんだから、あんた」

「大喧嘩したよな。そういう秋は、どうしてこの大学を選んだんだよ?」

「そりゃあ、できるだけ上の大学に入りたいって思うのは当然でしょ? かなり無理したし、春の地点では無理だって担任にも言われたけれど、そんなの、やってみなきゃ分からないじゃない? それに、あんたがこの大学を志望してるって聞いたから」

 酒を飲んでいる気分だった。いや酒なんて飲んだことないけどさ、なんか普段できない話をしているから、普段できないこともできそうな心地になって、この葡萄ジュースみたいな、妙に甘ったるい雰囲気に余裕で酔える。

「ああ、ほんと、まじふざけんなよ。私の気持ちを知っているくせにさ、同じ大学にはいって、いちばん初めに聞かされた話が他の女の話だったんだから、本当あり得ないからな」

「それは、ごめんよ」

「まあ、ツッキーはどうせ私のことそんな目で見てないだろうし」

「見てないというか、見れないってのが本音」

「本当、ナチュラルで人を傷つけること言うよね」

 別に傷つけたくて言ったつもりはなかった。こいつ、ズボラで幸の薄そうな顔してるけど、顔は整っているし、高校の時も何人かに言い寄られてたし、俺とめっちゃ気が合うし、そりゃ付き合いでもしたら楽しいだろうけど、なんだか、そういう目で見てはいけないような気がするってだけ。恋愛対象とか、カノジョとか、そんな言葉が秋に似合わない気がして、じゃあどんな言葉が似合うんだって話だけどさ。友達は違うし、嫁はもっとおかしいし、ソウルメイトとか気持ち悪いけれども。

「私、やっぱり女らしくないかな?」

 秋は葡萄ジュースを飲み干す。酔ってんのかってくらい顔を赤くしていた。

「自分でも分かっているのよ。お洒落とか面倒だから、ファッションとか化粧とか興味なかったし、別にみんなからよく見られたいとかも思わないし、誰かに好かれたいとかもなかったし、ギターとかベース担いで、あんたみたいな馬鹿と音楽やってんのが楽しかった。でも私だって大人になる訳でさ。大人の恋愛を知って、色々な人とセックスして、そういうの自分もやるのかなって思うと憂鬱だし、将来自分が何しているとか、のらりくらり社会を渡れるのかとか、それも不安だし」

 秋が机の下から取り上げたのは、一本の缶チューハイだった。ノンアルの。

「ねえ、一緒にちょっと大人になってみない?」

「いいけど、ノンアルだと意味なくね?」

「気にすんなって。こういうのって気分じゃん。あと勢いとさ」

「まあ確かに」

 互いにグラスを空にして、ノンアルの缶チューハイを担ぎ合う。ジュワっと炭酸が弾けて、気化して、どこかに消えていく。グラスをぶつけあって乾杯して、二人一緒にぐいっと飲み干した。

「ぷはあー、うめえ!」

 秋がおっさんみたいに天井に吠えた。

「大学一年からこんな飲み方してたらさ、大人になったらどんな飲み方してんのかなってワクワクしない?」

「程々にしとけよ、お前、今日なんかおかしいぞ?」

「無理だね、バカ月彦。てか早く飲めよ。グラスまだ空いてないぞ?」

「アルハラすんなって、ノンアルだけど、俺のペースで飲むんだよ」

「いいから早く飲めって、いいから、ほら」

「お前、ほんと今日どうしたんだよ……」

 秋は俺のほうへ少しすり寄って来ると、頼んでもないのに俺のグラスを持って、強引に口元に持ってくる。いやまじで勘弁してくれ。炭酸そんなに得意じゃないからさって言っても、秋はまるで聞いてない。

「お前、いい加減にしろって!」

 俺は強引にグラスを払いのけた。そのとき力加減を間違えて、少し残ったチューハイごとグラスが床に落ちて、カーペットがちょっと濡れる。

「ああ、ちょ、ごめん」

 慌てて俺は足元にあったティッシュを数枚とって液体を拭き取る。グラスを払い落としたのは俺だけど、元はと言えば、苦手な炭酸を強引に飲ませてきた秋が悪いんだよな。ちょっと気まずいな、どうしようかな、とりあえず謝って話でも逸らして場を和ませようかって、色々考えながら秋の顔を見て、俺は驚いた。秋が泣いていた。

「おい、どうしたんだよ」

 出会ったときから、こいつは顔の皮が分厚くて喜怒哀楽をろくに出さなかった。半年くらい同じバンドを組んで、やっと少しは感情を見せてくれるようになったけれど、口は悪いし謙虚じゃないし、そりゃ俺が言えたことじゃないけどさ。部活で孤立して、ほぼ全員から罵詈雑言を浴びせられていた俺を庇って、部員どもに思いきり怒鳴り散らしてたくれたときも、『こいつから音楽を奪うんじゃねえよ!』って、表情一切変えないで叫ぶもんだから、まじでバケモンかと思ってた。心臓に毛でも生えてんじゃないかって。そんな長い付き合いだけど、秋が泣くなんて初めてのことだったから、どうすればいいか分からない。

「俺、なんか悪いことしたか?」

「ううん、違う、ごめんね、ツッキーなんにも悪くないからさ、ほっといて」

「いや無理だって、そんなの。目の前で誰かが泣いていて、そんな易々と見過ごせる訳ないだろ」

「違うの、本当に……」

 我慢していたであろう涙が決壊した。どうすればいいか分からなかったから、とりあえず秋の左側に腰を下ろして、背中に右手を添えて上下にさすってやる。秋は、俺に身体を預けるみたいに体重をかけてきたから、左手で肩を持つと胸元ですすり泣いた。髪のつむじか視界のすぐ先にあって、こいつの実家の匂いが漂ってくるとともに、下腹部に得体の知れない力が入りそうになるから大きく深呼吸をした。

 そのまま、たぶん一分くらい時間が経ってから秋が顔を上げた。幸の薄い顔とか言ったけれど、泣き腫らした女の顔って胸に刺さるよな。このときの秋は女の顔をしていた。正確に言えば、俺がそういう風にこいつの顔を認識したのだと思う。その顔の距離が近くて、拳一個分くらいだったから尚更。計らずとも、こいつは四つん這いになって俺にすり寄っている格好になっていた。そして気まずい沈黙を打ち破ったのは秋だった。

「私の処女、もらってくれない?」

 そして下腹部に手をやって、俺の固くなったものを触る。

「おい、お前……」

「ごめん自分でも分からない。でも、さっきも言ったけど、これから私たちは大人になっていくわけでさ。色々な人と別れと出会いを繰り返して、恋人になったらほとんど必然的にセックスっていうイベントがあって、色々な人と身体を重ねていく。減るもんじゃない回数が増えていく中で、一回目っていうだけで異様に特別扱いされる。それを考えただけで気持ち悪いの。私、本当は誰ともセックスなんてしたくないの。でもそんな訳にもいかないからさ、初めてのセックスは本当に信頼できる人に、ああこの人でよかったって思える人にあげたいって。そうすれば、これから私とセックスするであろう何人かの男たちに対する、私なりの些細な抵抗になる」

 そう言いながら、秋はまた目に涙を浮かべていた。今度は泣かなかった。

「俺も最低だけど、お前も相当ひどい奴だよな」

「自覚はしている。本当にごめんなさい」

「いいよ、俺らの仲だし。それに俺だって、もしお前が他の誰かと付き合ったって聞かされたたら悲しいし」

「悲しいの? 本当?」

「そりゃ、悲しいだろうな」

「それは、私のことが好きだから?」

「それとは別の感情かもしれないけれど。お前は、俺の命の恩人だから。本当に辛いときに救ってくれた人間だからさ。俺も、お前となら」

「そう。ならこれお願い、月彦」

 秋がパジャマのポケットから小さな正方形の袋を出した。

 俺が秋に抱いている気持ちは、恋愛感情とは少し違う、しかし限りなくそれに近い友情みたいなものだと思う。いずれにせよ明確な恋愛感情ではないことは確かで、つまり、この提案を俺が呑んだ瞬間、秋とはセフレになるってことになる。それは嫌だなって思う。断るべきだって俺の理性も言っている。でも秋は特別な女性で、その処女を奪える優越感がたまらなかった。一回目ってだけで異様に特別扱いされる。それを考えただけで気持ち悪いって、秋の言ったことは本当にその通りだと思う。いま自分が心底気持ち悪くてたまらないから。

 俺たちは窓際のベッドに寝た。

 シングルベッドってこんなに狭いんだな。そういえば下宿に帰ったら早くベッド組み立てないと。こっちに来て数日、いつまでフローリングで寝てんだろうな俺は。

「ツッキー、ありがとね」

 隣で、全裸で横たわる秋が言った。

「私、セックスってもっとでかいもんだと思ってた。強烈に心と身体に残るもんだって。でも、なんか実際やってみるとこうも呆気ないんだね。そりゃ、みんな見ず知らずの相手とでもセックスできるわけだよね。この程度の出来事なんだから」

「少しは気分、晴れたか?」

「うん。なんか腑に落ちたというか、色々考えすぎていただけなんだって思った」

「そっか、よかった。なんか、ありがとう」

「どうして、私何もしてないよ?」

「いや、高三のときのこと思い出してさ。俺から音楽を奪うんじゃねえって、部員の奴らに怒鳴り散らしてくれたこと。あれがなかったら、俺は本気で音楽やめてたんじゃないかって思うから」

「私は、音楽やってるツッキーが好きだったからさ。それに大昔、同級生に大切にしていた熊のぬいぐるみを盗まれたことがあって、誰かの大切なものを取っていく人のことが個人的に許せなかったの。ツッキーがどう思っているか分からないけれど、音楽は、歌は、ツッキーが掻き鳴らしていたギブソンのレスポールは、間違いなくツッキーの宝物だと思うから、いかなる理由があっても、それを奪う奴らが許せなかった」

 ベットとは対極の部屋の端っこに、秋が高校のときに使っていた水色のギターが立てかけてあった。

「また、スタジオ行く時は誘ってね」

 秋は言って、俺に背を向けるように寝返りを打った。それを後ろから抱きしめて、愛撫して、夜通しセックスした。

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