第44話 夏服
ネットを遮断されていた千帆がどうやって逃げたのか。それを教えてくれたのは、やはり穗多香だった。
なんでもあのとき、千帆は出て行くふりをしただけだったそうである。伊勢研究室が穗多香を追跡するために開いたネット回線を使い、彼女は今度こそあの部屋を本当に出て行ったのだという。
つまりドアの影に隠れておいて、侵入者の隙を突いて開いたドアから出て行ったんだよ、と穗多香からのLIMEに書いてあったので、そういうことらしい。
とにかく千帆がいなくなったのは事実だ。あれ以降専用タブレットの管理アプリを立ち上げても背景のファンシーな部屋が表示されるだけで肝心の千帆の姿はなかったし、どんなに呼びかけてみても応答はなかった。
千帆はどこかに消えてしまった。だが、前のような悲壮感はなかった。それは、案外すぐに彼女の姿を見かけたからかも知れないが――。
そんな別れから、早くも一ヶ月ほどが経過していた。
あれだけ毎日振っていた雨も上がり、季節はすっかり夏である。
制服の衣替えはもはや昔のこととなり、男女ともに紺色のブレザーから身軽な白いシャツ姿となっていた。
蝉の声が聞こえ始めてきたその日、勇が通う高校は終業式を迎えた。
体育館での全校集会から教室に戻ってきたクラスメイトたちが、思い思いにくつろいでいる。
夏休みに一緒にキャンプに行く約束をしている男子たちの隣で女子たちが勉強会を開こうと計画したりしているなか、勇の目の前で、後藤がMyriTubeを開いた。
今流行りの軽快な曲が流れる。色は――黄色だ。
後藤が最近はまっているというバーチャルシンガーが新しい動画を投稿したから、それをチェックしているのだ。
約二ヶ月前に『ラプソディ・イン・オレンジ』という大ヒットソングを出したそのシンガーは、名前と曲風をガラッと変えて再出発をしていた。
新たなる名は、CHIHO。もちろん、あの千帆だ。
肩を軽く揺らしてリズムを取りながら新譜を聴いていた後藤が、スマホを操作しながら口を開いた。
「あ、これもAI生成だってさ。AIってなんでもできんのな。でもよ、そうなると舞阪が曲を提供したのって最初の一曲だけってことになるけど……」
その言葉を受け、前野が白い二の腕を晒して眼鏡をくいっと顔に押し上げる。
「AIか。そういえば伊勢もあのAIボイス実験を終えたみたいだし、どうなってるんだ。何か知ってるか、勇?」
「さぁ、知らないなぁ」
首の後ろで手を組んで空とぼける勇。
あれは大事な思い出だ、こいつらに教えるのはもったいない。
それに教えるにしても事態が複雑すぎてなにから説明したらいいのか、勇にはとんと見当が付かない。
前野が伺うように、眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「お前はもう用済みってことか?」
「そんな単純な話じゃねえよ」
組んだ指をそのまま頭上に持ち上げて、勇はうーんと背伸びをする。
七月下旬の空気はまだ爽やかさを伴っていて、窓の外の空は清々しく青い。8月のとろけるような暑さとは違ったその空気に、夏がずっとこれだったらいいのになぁ、なんて思う。
「まあ、千帆はちょっと目立ちすぎてる気はするけどな……」
呟く勇の顔を、夏盛り前の風が撫でていく。
別れ際に言っていたとおり、千帆は自由に歌う存在となっていた。
自分はAIボイスだと、彼女は投稿二曲目のキャプションで早々に明かした。
視聴者のコメントは、『すご! オリジナルAIボイスでこんなにうまく作れるの!?』『なんのサービス使ってるか教えて!』といった、好意的なものが大半だった。もちろんなかには『AIかよ、見るのやめよ』というようなアンチコメントもあって、それについてはCHIHOのファンから反論のコメントが大量についていたりした。
まあもっとも、彼女が芯から本物のAIであると気づいている人間はいないだろうけれども。
千帆は、どのサービスを使っているかについては一切答えなかった。それでも、AIによる作詞、AIによる作曲、AIによるMV作成、そしてAIによる歌唱と、すべてをAIで完結させた真のバーチャルシンガーとして、動画を投稿し続けた。その投稿頻度は一ヶ月で三曲。だいたい一週間に一曲のペースである。
千帆は、そのすべてが何十万再生という再生数をたたき出す、押しも押されぬ人気MyriTuberとなっていた。
もちろんMyriTubeAIによる底上げは大いにあるだろうが、くびきを解かれた千帆がAIたちと作る楽曲は、勇の耳にも段違いの完成度に感じられた。つまり、人間より曲作りがうまいのだ。
1曲目の『ラプソディ・イン・オレンジ』はピアノ主体だったのが、2曲目以降はエレキギターやベース、シンセ、ドラムを多用したいわゆるポップな曲調になったのも、視聴者に好意的に受け入れられていた。
前野がニヤリと笑う。
「AIを妬んでるのか? 正規の音楽教育を受けてきたお前は割を食うもんな」
勇は方をすくめて見せた。そんな簡単な理由であるわけがない。
「違うって。いろいろあるんだよ」
千帆の活動を知ったとき、勇はホッとしたような、心配なような気分になったものである。
こんな目立った動きをしたら研究所に見つかって連れ戻されてしまうのではないか、と心配だったのだ。
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