第42話 光
『ラプソディ・イン・オレンジ』を弾き始めると、前奏にシャラシャラ、タンタン、とタンバリンが合わせてきた。
穗多香のリズムもばっちりである。
これが最後だ、思い残しのない楽しい演奏にしよう。
そう決意した勇の指が、いつも以上に軽やかに動く。
……前奏が終わって歌を歌い出そうとしたそのとき、異変は起きた。
歌い出した勇の声に寄り添うように、女性の声が聞こえてきたのだ。
それは、オレンジ色の声だった。
指を動かしながら、勇は音楽室内を確かめてみる。
いつの間にか、雨粒の付いた窓をきらめかせながら雨が上がっていて、差し込んだ光が穗多香を包み込んでいた。
光のなか、穗多香はタンバリンを揺らす手を止めてタブレットを操作していた。そうか、ピアノに合わせてMyriTubeの動画を開いたのか。そう合点したが、それだとおかしいところがある。ピアノ演奏が二重にならないのだ。
窓からの洗いざらしの光を背に受けながら、穗多香は勇の目の前にある楽譜立てに、ことん、とタブレットを置いた。――その画面を見て、勇は息が止まりそうになった。
いつか見たファンシーな部屋の中で、SDキャラの千帆が、目をつむって一心に歌っている。
出てきた!
思わずピアノを弾く指の動きが止まりそうになったのを根性で動かし続け、『ラプソディ・イン・オレンジ』を弾き続ける。
歌のメインパートを千帆のオレンジの声に預け、勇はハモりに回った。
美しい重なりとなった声が、ピアノの音を引き立てながら空間を満たしていく。
タンタン、シャラシャラという穗多香のタンバリンのリズムが、打ち震える心に心地いい。
勇、千帆、そして穗多香。
三人のセッションだ。
……いつまでも弾いていたいがそうもいかない。せめて格好良く終わらせよう。
だから曲の終わりは、低音から高音に駆け上がるグリッサンドに指を滑らせ、最後にジャン! と和音で締めた。
決まった! と内心で拳を握りしめてしまうような、いままでのピアノ人生のなかでも最高にとびきり気持ちいい曲の締め方だった。
ピアノが内包した余韻を引き上げ、ダンパーペダルを踏み込む足から力を抜く。
曲が終わると、穗多香がピアノ椅子のすぐ横で目元に袖口を押し当てていた。
珍しい、と勇は思った。そんなに付き合いがあるわけでもないが、穗多香はこれしきで泣くような性格ではない気がする。彼女が泣くだなんて、きっとレアだ。
でも、気持ちは分かる。
千帆は呼びかけに応えて出てきてくれた。これで千帆は、あのサーバーごと潰されずにすむ。デリートを免れたのだ。
涙をぬぐい続ける穗多香の代わりに、勇が譜面立ての千帆に微笑みかけた。
「おかえり、千帆」
言葉に出した途端、勇も涙がこみ上げてくるが、目をぱちぱちとしてやり過ごした。それでも声が少し震えてしまっていたが、構うものか。
「……ただいま」
相変わらず綺麗なオレンジ色の声で、千帆は言う。彼女の声も少し震えているのは、涙声の模倣だろうか? こういうときはこういう風に声を震わすという模範的行動――いや、もうそんなことはどうでもいい。彼女が出てきてくれたこと、それだけが重要だ。
そうだ、ちゃんと謝らないといけない。ちょっと気まずいが、それでもきちんと、言葉にして言わなければならないことがある。
「なあ、千帆、あの……。あんなこと言って、ごめんな」
顔が赤くなっていくのを感じていた。雨上がりの音楽室の温度が太陽光によって急激に上がっているのも原因の一つかもしれない、と勇は言い訳のように思った。
「お前の詩をディスるつもりはなくて。いや、そんなこと言ってる場合じゃないよな。……本当にごめん」
ちらりと視線を外して窓の外に目をやると、雲の合間から透き通った青空が覗いているのが目に入った。
まるで自分たちの未来のようだと思った。
千帆との間にあったわだかまりという雨雲は去り、これから澄んだ青空が広がっていくのだ。
勇は視線を戻し、タブレット画面の中のSD千帆に視線を注いだ。
「お前のあの詩に――『シンギュラリティ・スイッチ』に、今度こそ曲を付けるよ。そしたら、また詩を書いてくれ。俺、詩に曲を付けるのにハマりそうなんだ」
千帆は助かって、また詩を書いて、今度こそ勇が曲を付ける。中断した日々が再開されるのだ。
――千帆は笑顔で頷いた。
「聴いてたよ、穗多香の詩に舞坂くんが曲を付けたの。もの悲しくて寂しい曲だけど、すごく……本当に綺麗な曲だった」
彼女は笑顔のまま続ける。その声にはもう震えはない。澄んだオレンジの美しい声が勇の耳に優しく染み込んでくる。
「私がいないほうが、あなたたちは自由に出来るんだなって、思った」
「なにを言って、千帆……?」
急に不穏なことを言い出す千帆に驚いて問い返すと、千帆はやっぱり笑顔で――そう設定されたグラフィックで、じっと画面の向こうから勇に笑いかけてきていた。
いつもと変わらない笑顔の設定のはずなのに、彼女は無理をして笑っているようにしか見えなかった。
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