第36話 引きこもった千帆
「あの、そこに千帆がいるんですか?」
勇が水を向けると、伊勢教授は痩せた頬を引き締めて頷いた。
「そうだよ。サーバーに閉じこもって出てこないんだ」
そっと箱に手を置き、教授は続ける。
「年頃の娘の扱いは実に難しいものだね。――AIに穗多香のパーソナリティを学習させた時点でそれは考慮していたんだが、千帆は予想の上を行ってしまった」
予想の上を行く――それは穗多香もいっていたことだ。千帆はよっぽど優秀らしい。
それから彼は肩をすくめた。
「お父さんのパンツと私の下着を一緒に洗ったの、許さないんだからね! というところだな」
は?
勇はきょとんとして目をしばたたいた。
なにを言っているんだ、この人は。AIの下着と自分のパンツを一緒に洗うって、なんだ。
というか、AIってパンツを履くのか? 確かに専用タブレットのなかのSD千帆は服を着ていたが……。あれって物理的に洗えるものなのか?
「……一緒に洗ったんですか?」
戸惑った勇が訪ねてみれば、教授は眼鏡の奥の瞳をいたずらっぽく和ませた。
「拒絶具合の例えだよ。分かりやすいだろ? つまり、私の言葉など聞く耳持たずってことさ」
冗談だったらしい。どう受け取ればいいのか分からず娘の穗多香を見てみれば、彼女は父親とそっくりに肩をすくめて見せた。穗多香もよく分からないらしい。
箱の前にたむろしていた学生らしき若者の一人が、部屋の中央の事務机に置かれたノートPCを指さした。
「そこから何度も何度もメッセージを送ったんだけど、まったく無反応でさ。まるで機密性の高い洞窟に蓋をして閉じこもってるみたいなんだ」
薄い水色のサマーセーターを着た女性が、苦笑気味に話しかけてくる。
「ねぇ、君。ログを見たわよ。ずいぶんと盛大に千帆をディスったわねぇ」
「え?」
いきなり何を言われたのか分からず、勇は首を傾げた。
だが、女性は腰に手を当てて続ける。
「千帆が直した詩より、もとの穗多香ちゃんの詩のほうが好きだって言ったでしょ? で、それを千帆に見られちゃった、と。そりゃ千帆も傷つくわよ」
「別にディスったわけでは……」
あれはそういうつもりで言ったのではない。というか、あの文章も伊勢研究室には伝わっていたのか。恥ずかしい。だが、千帆が閉じこもってしまった原因を探るためには、確かに勇のメッセージも含めたあのLIMEでの会話は重要な手がかりになるだろうから、仕方がないところもある。
それより、書いたメッセージだ。
――伊勢の書く詩のほうが俺の曲には合ってるよ。
確か、穗多香とのやり取りではそんなことを書いたはずだった。そのことを言っているのだろう。
思い返してみれば、それは確かに千帆への暴言に他ならない……。
女性は、ほんのりと赤い唇の端を意味ありげにニヤリと上げた。
「ちょっとイケメンだからっていい気になって。女心が分からない男はモテないぞ?」
イケメン?
「えっと……?」
思わず自分を指さしてみれば、女性はうんうんと頷きながら、何かをつまむように親指と人差し指を近づけた。
「ちょっとね、ちょっと。ちょーっとイケメン」
あの指の隙間くらいでもいい、イケメンと言われてしまった。
「え、あの……」
うめきながら顔が紅潮していく。
見ず知らずの女性にイケメンといわれたのは生まれて初めてである。親戚の集まりでは、あらまあ勇ちゃんったらイケメンになって~! とよく言われるが。それは勘定に入るまい。
くつくつと喉の奥で笑う吐息が、伊勢研究室内に広がっていった。
それで勇は、自分がからかわれたのだと悟ってもっと顔を赤くした。
「で、まあ」
男性が笑いに声を震わせながら話を引き継ぐ。
「それなら、その記憶自体を消してしまえばいいってことになったんだけどね」
「消す……」
言葉を繰り返しながら、勇は上気した体温が急激に下がっていくのを感じた。
来た、デリートの話だ。
記憶を消す。
千帆のデリートとはそれだったのか。まるで、『ラプソディ・イン・オレンジ』の元の詩のようだ。
でも少し拍子抜けだ、千帆の存在自体を消されるわけではなかったか。
「でも完全に閉じこもってるから、千帆の中身には手を出せないって結論に至ってね。せっかく僕の専門分野だと思ったんだけどなぁ。あ、僕はAIのブラックボックス問題を研究していてね――」
「強制的に千帆を排出させるプログラムを作って走らせてみたんだけど、それも駄目だったわ」
話が止まらなさそうな青年の言葉を、女性が強引に引き取った。
そして伊勢教授がため息と共に肩をすくめる。
「千帆もさるものだ、分厚い岩を目の前に召喚! ってやつさ。まさに行く手を阻まれている感覚だよ」
手を突き出して揺らし、エア分厚い岩を表現する伊勢教授。
つまり、千帆と対話を試みようとしても無視されて、それならばと白日の下に引き出そうとしても拒絶されて……ということらしい。
さっさっ、と穗多香が手を動かした。手話だが、彼女の指がかすかに震えているのを勇は見逃さなかった。顔を見れば、口は堅く引き結ばれ、かなり深刻な眼で父親を見つめている。
「そうだ」
と、伊勢教授が打って変わって重々しく頷いた。
「AIが人間のように傷つき拗ねるというのは、とても興味深い事象だよ。まさに年頃の女性の側面を顕している。だが閉じこもってこちらからのアプローチを完全に拒否するようになったAIとなれば、話は別だ」
――研究室の空気は、変わっていた。
いままでどこか和気藹々としたものだったのに、それが紙やすりのようなザラリとした感触になって、勇の心に細かな傷を擦りつけようと待ち構えているようだった。
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