第9話 自宅のピアノ室

 それから数日が経ち高校が休みの土曜日になると、勇はピアノを録音しようと思い立った。

 詩を書くにしてももとの曲がないと字数などが分からないから、サンプルとして穗多香に送ろうと思ったのだ。


 土曜日はほとんどピアノ教室の生徒さんが来ないので、ピアノ室にすんなり入ることができた。

 8畳ほどのピアノ室は来客向けの部屋ということで舞阪家のどの部屋よりも掃除が行き届いている。


 でんと置かれたグランドピアノの椅子に掛けると、録音状態にしたスマホを譜面台に立てかけて、『ラプソディ・イン・オレンジ』を一通り弾いた。

まだまだ粗削りだが、メインの旋律はもうこれで行くつもりだ。


 それをLIMEで穗多香に送る。


 一仕事終えた勇は、その流れで指が動くままに母の宝物であるグランドピアノを弾いた。


 好きなゲームの曲を弾いてから、そうだ! と思いついて本棚からショパンの楽譜本を取り出し、パラパラとページをめくってお目当ての曲を探した。


 あったあった、ショパンのバラード第2番ヘ長調Opオーパス.38。


 椅子に座り直すと、勇は楽譜通りの和音を指で押さえていく。そのうち、勇はぼんやり穗多香のことを考えはじめ、彼女が登場するストーリーを妄想していた。


 オレンジ色の夕陽が溢れるなか、お嬢様の穗多香が庶民の恋人と別れて屋敷に帰る、というストーリーだ。だが曲調と共に一変する。その夜、穗多香お嬢様は家族に交際を反対されてしまうのだ。……交際を反対されたことが悲しくて悲しくて、でも彼のことは好きで、それでも反対されたという事実はお嬢様の胸に深く突き刺さって、もう元には戻れない……。


 そのお嬢様の顔は、もちろん穗多香だ。じゃあ庶民の恋人は誰だろう? ――まさか、俺?


「感心感心!」


 突然ピアノ室のドアが開いたかと思うと、そこから母が顔を出してきた。


 勇はピタリと指を止めた。

 ハッと息まで止め、遅れてだらだらと冷や汗が流れるのを感じる。

 まさか脳みその中まで見られたわけはないのだが、穗多香のことを考えながら曲を弾いていたのを見られたのはとても気まずいものだった。


「最近、よくオリジナルの曲を弾いてるわね。作曲でもしてるの?」


「うん、まあ……」


 曖昧に頷く勇に対し、母はにっこにこの笑顔である。


「そう、綺麗な曲ねぇ。さすが私の息子。これなら音大行けるわよ」


 母の言葉は、勇が現実に戻る足がかりとなった。


 音大、か。


 母は音大卒だが、プロとして活躍するわけではない。自宅で個人ピアノ教室を開く、いわゆるピアノの先生となった。

 それが母としてはコンプレックスらしく、息子をプロのピアノ奏者にしようとしているのだ。


「勇、こんどユースのピアノコンクールがあるんだけど、出てみない?」


 勇ははぁっとため息をつくと椅子から立ち上がった。譜面台に置いたスマホをとると、母に視線を合わせないようにして歩き始める。


「出ない」


 少しきつい口調になってしまった。


「えー、どうして。勇なら最優秀賞とれるわよ」


「興味ない」


 食い下がる母にぶっきらぼうに反発すると、勇は母の横を通り過ぎて廊下に出た。


 勇がピアノを続けていたのは、母が喜ぶからであった。だが最近は、自分はなんのためにピアノを続けてきたのか、そしてこれからピアノをどうしたいのかを疑問に思うようになっていた。


 音大なんか行くつもりはない。俺はちょっとピアノが弾けるだけのただの一般人だ。プロになんかなれるわけがないし、なりたくもないし。

 じゃあ何がしたいのかと問われれば、それはそれで答えに詰まってしまう。

 ――俺は何がしたいんだろう。


 そんなことを考えながらリビングの前を通ったとき、手に持った勇のスマホが震えた。


『音楽をありがとう。初めて聞いたときも思ったけど、すごくいい曲だね』


 見ると、そんなメッセージを受信していた。送信者は穗多香だ。さきほど送った曲をさっそく聴いてくれたのだ。


 しかし、そのすぐ次に来たメッセージが『詩が出来たよ』だったので、さすがの勇もびっくりしてしまった。

 返信を打ち込みながら自室への階段を上がっていく。


『早いな、もう出来たのか。さっき曲送ってから10分も経ってないのに』


 送信すると、すぐに返信が来た。


『実は最初に君が弾いてくれたやつを千帆が録音していてね。その曲を何度も聴きながら書いたんだ』


 なんだ、そうだったのか。

 じゃあ気を利かせて曲を送らなくてもよかったか……。


 それにしても、なんだかちょっと恥ずかしかった。盗聴ではないが、それに近いことをされているような気がする。……まあ、別にいいけど。


 デジタルって怖い。



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