第6話 発現
「準備は、いいですか?」
梶が穏やかに問いかける。
「まあ、やるしかないんでしょ」
紫音が軽く肩をすくめて答えると、梶は「では」と頷き、腰のケースからガラス瓶のようなものを取り出した。中には、どろりとした赤黒い液体。人間の血液だ。
「起こしますね」
梶が瓶の蓋を緩め、ほんの少しだけ中身をこぼした。甘ったるく、鉄のような匂いが一気に訓練場の空気に広がる。
その瞬間、幼体がぴくりと動いた。目が開く。まるで眠っていた子犬のように、ゆっくりと立ち上がり、鼻をひくひくと動かした。
「君が前に戦ったらしい狼型の個体よりは弱いです。ただ、そうですね……こちらの世界だと、成体のイノシシくらいの身体能力はあると思ってください。油断は禁物です」
「わかったって」
紫音は変体できなかった時のためにと渡されていた訓練用の木刀を肩に担いだまま、幼体と対峙した。
一瞬、目が合う。次の瞬間、幼体が走り出した。
速い。だが、見える。
足元に飛び込んできたその動きを横薙ぎに払う。木刀の先が肩口に命中し、硬い骨の感触を伝って手に振動が返ってくる。そのまま一歩踏み込み、胴体に一撃。たまらず幼体がひっくり返る。
紫音は木刀を下げ、構え直すことなく肩で息をついた。
幼体は痙攣し、その場に倒れたまま動かなくなる。
「……終了ですか?」
梶が微笑しながら近づく。
「さすがですね。刀術の全国チャンピオンでしたっけ。やっぱり身体能力が高い」
「褒めてもなんも出ねえよ」
紫音は乾いた笑いを浮かべつつ、心の奥の違和感を隠す。対峙しても、まったく紅核器が反応しない。力が出ない。
むしろ、渇きが増してきていた。
――血が、飲みたい。
喉の奥が焼けつくような感覚に、奥歯を噛み締めた。
「……もう一回やってみましょうか」
梶が手を上げると、反対側のドアがまた開く。今度は二体。先ほどと同じ種類の幼体が、同時に放たれた。
「一体より難しいかもしれません。無理せず、引いて構いませんよ」
「なめんな。勝てる」
紫音はぐっと唇を結ぶと、二体の動きに意識を集中させた。
左右に広がって接近してくる。片方を牽制するため踏み込んだ瞬間、もう一体が背後を取ろうと回り込んでくるのがわかった。反転しながら木刀を振るが、間に合わない。
左肩に鋭い痛み。牙がかすった。
「ちっ……!」
息が詰まる。次の瞬間、胸の奥から熱いものがせり上がってきた。
血が、燃える。
視界が赤く染まる。喉の渇きが、怒りと飢えに転じた。
木刀を地面に落とした。
両手が痺れ、指先から熱が集まっていく。
そして――爪が、ゆっくりと伸び始めた。赤黒く光を帯びた、鋭く硬質なもの。
紫音は、にやりと笑った。
「……やっと来たか」
紫音は指先に現れた紅刃を見下ろし、喉奥の熱に身を任せた。だが――。
「浅野さん!」
梶の声が飛ぶ。
「紅刃を、爪ではなく“手”に集中させてください。意識を、掌の中心へ」
「は? できてんじゃ――」
口を開きかけて、紫音はハッとした。爪はまだ鋭く伸びているが、言われたとおり、そこに力が逃げているような気がした。
「ちっ……はいはい、やればいいんでしょ」
舌打ちまじりに言いながら、指先から力を引き抜くようにして掌に集中させる。すると、爪と牙はすっと引き、代わりに手のひらの皮膚が波打った。
ぶつ、と皮膚を破る音。
何かが生えた。
ナイフのように赤黒く輝く刃――紅刃が、手のひらの中心から斜めに伸びている。
……が、その長さはわずか五センチほど。よく見ると、カッターの刃を少し出したような、小ぶりで頼りないサイズだった。
「……ちっちゃ」
紫音が顔をしかめて呟く。
他の訓練生たちが展開していた紅刃は、腕全体を覆うほどの剣状だったり、肘から槍のように突き出していたりと様々だったが、どれも明らかに威圧感があった。
比べて、自分のこれは。
「浅野さん、もう少し、集中してみてください。紅因子の流れを――」
「してるっつーの」
紫音は睨むように返し、ぐっと奥歯を噛みしめて再度集中した。血が熱を帯び、筋肉が震える。体内の何かが流れを変える感覚がある。けれど、紅刃はピクリとも伸びなかった。
「そんなはずない……」
額にうっすら汗がにじむ。体は反応してる。紅因子も感じる。なのに。
「あれ……本当ですね」
梶が思わず口元を手で覆い、目を瞬かせた。
「ちょっと、外に出ましょうか。いったん、落ち着いて状況を整理しましょう」
紫音は紅刃を見下ろし、小さく舌打ちする。
「はいはい、また様子見ってわけね。やれやれ」
そう言いながら、彼は訓練場を後にした。
* * * *
施設の隅にある白い待機室に通されて間もなく、梶が何かのケースを持って戻ってきた。
「こちらを、装着してみてください」
取り出されたのは、黒いリストバンド型の機器だった。無骨なデザインながら、表面には小さな液晶ディスプレイがついていて、どことなく未来的な印象を受ける。
「最新の測定器です。紅刃量、紅刃硬度、皮膚硬度、再生可能量、筋量、エネルギー量……あらゆる数値が、リアルタイムで記録されます。現時点の値と、訓練を通して発現した際の最高値も記録されます」
「つまり、俺がどんだけ“できてないか”をちゃんと見せつけてくれるってわけね」
紫音は鼻で笑いながら、素直に腕を差し出した。
「いえ、そういう意図では……」
苦笑いを浮かべつつ、梶はリストバンドを丁寧に巻いた。軽く、ぴたりと肌に密着するように締まる。すぐにディスプレイが光り、小さく機械音が鳴った。
「ちゃんと反応してますね。では……」
梶は自身の端末を取り出し、接続しているらしい画面を眺めていたが、しばらくして、曖昧な笑みを浮かべた。
「うーん……浅野さん、これは……その、正直に申し上げますと――」
「低いってか?」
「……まあ、そうですね。完全に変体していない人間の平均よりは少し上ですが……浅野さんは、もともと運動能力が高いですから、変血を飲む前からこれくらいでしょう」
「はー……」
紫音は天井を見上げ、ふっと息を吐いた。
「焦らなくて大丈夫ですよ。ヒルとしての発現には、個人差があります。紅因子の活性も、環境や感情の変化によって大きく左右されるので……」
「そのうち出るってこと? いや、出るかもか」
「……はい。ただし、正直に言うと最初の測定値から、ある程度“将来的な上限”も推定できます。もちろん訓練や経験で数値が跳ね上がる例もありますが、初期値が高い方が、伸びしろも大きい傾向にはありますね」
梶の声はあくまで丁寧で、そして優しかった。
「はは、それ言っちゃうか。 だったら俺、天井低そうじゃん」
紫音は皮肉気に笑いながら、リストバンドをちらりと見下ろした。
「ま、便利な玩具ってわけね。数字のほうがよっぽど正直だ」
「リアルタイムでの変動も記録したいので、もう一度、訓練場に行きましょうか」
梶が申し訳なさそうに言う。
紫音は肩をすくめ、リストバンドを軽く指ではじいてから立ち上がった。
再び訓練場に足を踏み入れると、中央にはすでに幼体が二体、待ち構えるように姿勢を低くしていた。どちらも先ほど見た個体と同じ。小柄で耳の長い奇妙な獣たち。既に人の匂いを察知してか、赤い瞳がこちらをじっと見据えている。
「さっきと同じ個体です。もう目を覚ましていますから、いきなり来ると思います。ご注意を」
「上等」
紫音は笑みを浮かべながら前へ出た。足裏の感触がじり、と訓練場の床を捉える。眼前の二体の幼体は既に身構えており、空気には微かに鉄臭い匂いが混じる。獣たちは、紫音が近づくのを待っているわけではなかった。
一拍遅れて、左の個体が飛び出してきた。素早い、だが読める。
「動きだけはいいな」
紫音は半歩だけ横にずれ、跳びかかってきた獣の頭を手で払いながら、回し蹴りを食らわせた。低く抑えたその軌道は獣の脇腹を直撃し、鈍い音とともに弾き飛ばす。
「次、そっちだろ!」
振り向くと同時に、もう一体が突っ込んでくる。紫音はしゃがみ込み、横回転するように右足を払った。獣の足元が崩れ、派手に地面に叩きつけられる。
が、即座に立ち上がって歯をむいた。
「タフだな、こいつら……!」
紫音は息を整えながら距離をとり、目を細めた。完全に野性。予測不能なタイミングで飛びかかってくる。
二体が同時に間合いを詰めてきた。紫音は一体を盾にするように背中を取ってもう一体の攻撃を防ぎ、今度は接近戦に切り替えた。肘、膝、蹴り、手刀。動物のようにしなやかに、だが人間の戦術を乗せた攻撃が幼体を圧倒していく。
「……さて、そろそろ決めるか」
右手に集中する。指先にぞわりと紅刃が出現する。カッターほどの小さな刃。だが、今はそれで十分。
一体が真正面から跳んできた瞬間、紫音は左足でカウンターの蹴りを放ち、体勢を崩したところを逃さず紅刃を突き立てた。
ブス、と鈍く柔らかな感触が手に伝わる。そこから何かが逆流してくるような、生温かい感覚が掌に宿った。
「――あれ?」
のどの奥がじんわりと熱くなる。さっきまで感じていた、乾いたような渇きが、わずかに薄れていく。
(……なんだ、これ。血、か?)
だが戦いはまだ終わっていない。紫音は意識を引き戻し、もう一体に全力で飛びかかる。ステップで翻弄し、動きの隙を見てから内股に蹴りを入れ、膝を折ったところで背後から腕を回して絞め落とすように押し倒す。
「ったく……体力バカに付き合うのは骨が折れる……!」
幼体二体が床に沈黙し、訓練場に再び静寂が戻る。紫音は紅刃を見下ろすと、刃の根元にじっとりと赤黒い液体がまとわりついているのを見つけた。
「……やっぱ、吸ってんのか、これ」
その瞬間、リストバンドがピピッと音を立て、画面が点滅する。
『紅刃量:更新』
『エネルギー量:更新』
『皮膚硬度:更新』
梶が訓練場の端でデータを見つめながら言った。
「……わずかですが、筋出力も紅刃量も上がってます。やっぱり戦闘中に活性化したんですね」
「そっちの話か……」
紫音は苦笑いを浮かべる。梶は、紅刃を通じて血を吸ったことにはまだ気づいていないようだった。
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