第2話 兆し

吸血鬼の降下と同時に、空気が切り裂かれたような音が走った。

反射的に身を沈めていたおかげで、紫音はかろうじて直撃を避けた。慎とその後輩も地面に倒れ込んでいたが、幸い血は見えなかった。

慎が叫ぶ。


「おい、あれ、まさか本物か!?」

「見りゃわかるだろ!」


紫音は立ち上がりながら言った。土埃の中で、あの異形はゆっくりと立ち上がっていた。

肩幅は人間と大差ないが、腕が不自然に長い。関節の構造が明らかに違う。体表は薄皮をかぶったように滑らかで、光を反射しない。その顔には表情はなく、仮面のような白い面がはめ込まれていた。


「慎! 戦えるか?」

「ダメだ、俺、今は使えない! 術後一年は能力使用制限がある! 変体用の血もまだ持たされてない!」


紫音は目を細めた。

変体用のヒル血液――通称“変血”は、正式な戦闘許可が下りないと提供されない。慎のような訓練兵は、戦場に立つまで自力で変体はできないのが制度だ。

つまり、目の前の吸血鬼に対して今ここで戦えるのは、生身の人間三人ということになる。


「ったく、使えねえ制度だな……」


紫音は呟いた。

すぐ近くの路地裏から、人の悲鳴が上がった。誰かが逃げている。もしくは、逃げ遅れた。


吸血鬼はその方向へわずかに顔を向けた。顔と呼べる構造をしていないくせに、確実に“見る”動作をした。そして、突然止まった。

吸血鬼はゆっくりと首をかしげる。人間の仕草を真似するようなその動きには、どこか悪意のようなものがあった。


“観察している”――紫音にはそう見えた。


数秒後、吸血鬼は自ら動かず、かわりに後ろから黒い影が飛び出してきた。

出てきたのは、黒い狼のような形状をした“何か”だった。輪郭がぼやけて見えるのは、周囲の光を吸っているせいだ。皮膚は金属めいており、極端に短い体毛が逆立っている。口だけがやけに大きく裂け、歯はすべて銀色に光っていた。


「……眷属かよ。逃げ回る人間には自分で動くまでもないってか」


紫音は左手で作業用ベルトのバックルを外し、スナップ音を立てて外した工具ポーチを投げた。中身の一部が舗装道路に転がり出る。

慎がまだ地面にしゃがんでいる。


「慎、逃げられるか?」

「……なんとか、やってみる」

「よし。だったら俺が、犬の方を引きつける。あとは頼むぞ」

「お前が!? 武装もしてねぇのにか!?」


紫音はそれに答えず、ゆっくりと右足を一歩前に出した。

その動きに狼型の眷属が反応した。音もなく、地面を蹴る。

瞬間、目の前の空間がひしゃげたように感じた。


紫音は本能でその軌道を読み、右肩から地面へ倒れ込むように回避する――が、完全には間に合わなかった。

眷属の爪が、右腕をかすめた。


「……っ!」


浅く裂けた袖の下から、熱い痛みとともに血がにじむ。だが、紫音は声を押し殺し、すぐに地を蹴った。

眷属の爪が地面を抉る。アスファルトが紙のようにめくれ、火花が散った。


紫音は立ち上がり、反転して走る。眷属は間髪入れずに追いかけてくる。後ろから風を切る音。すぐそこに“口”の気配がある。


その時、紫音の胸の奥に、チリッとした熱が走った。

血が、動いていた。いや、何かが“目覚めようとして”いた。


「……っ、何だこれ……!」


息が荒くなる。視界が少しだけ赤く染まったように見えた。喉の奥が焼けるように熱い。

視覚、聴覚、触覚――あらゆる感覚が鋭くなっていくのを自覚する。

だが、それは“力”というにはまだ曖昧な感覚だった。

ただ一つ、はっきりしていたのは――自分が、何かに“飢えている”という実感だった。

紫音は走るのをやめた。すぐ後ろには、眷属の唸り声が迫っている。


「やるなら、今しかねぇな……!」


振り返りざまに、紫音は両腕を構えた。即興の構えだった。剣も銃もない。ただの素手だ。

だが、その身には、叩き込まれた型と反射が染みついていた。


眷属が跳びかかるより一瞬早く、紫音の体は勝手に動いていた。

爪がくる――そう思った時には、もう肩口から滑り込むように身を沈めていた。

手足の長いこの個体は、初動さえ見切れれば懐が広い。


紫音は左足を軸に回転しながら、眷属の腹の下に滑り込んだ。

その目に、倒れていた街灯の基部から突き出した鉄杭が映る。

判断は一瞬だった。手を伸ばし、錆びた鉄杭をつかむ。

そのまま、しゃがみ込むような低姿勢で眷属の背後へ抜け、上体をひねり――杭を突き刺す。


 「――っ!」


手応えはあった。

金属音と、肉の割れる湿った感触。杭が骨に当たり、止まった。


眷属が、初めて声のようなものを発した。

明確な音ではなく、内臓が漏れるような震え声。それは短く、苦しげだった。

 

次の瞬間、眷属は動きを止めた。

紫音は杭から手を離れ、すぐに三歩後退した。まだ油断はできない。

だが、動かない。

 

眷属の体がガクンと前のめりに崩れた。

そのまま舗装の上を滑り、爪がカン、と鈍い音を立てて地面を打つ。

 

紫音はようやく息を吐いた。


倒した――そう確信したと同時に、膝が少し震えた。

戦い方を間違えれば、こっちが死んでいた。

反応速度も、殺傷力も、完全に人間を上回っていた。

けれど、条件が揃えばなんとか勝てる。


この狼型の眷属は、あくまで下位個体。

それも、下位吸血鬼が使い捨てるために作られた、最下級の“量産型”だ。


紫音は出血した右腕を押さえながら、じっと眷属の死骸を見つめた。

勝った。そう思っているのに、なぜか胸の奥がざわついていた。

違和感はすぐに“渇き”として浮かび上がる。


喉が、焼けるように熱い。

流れ出した眷属の血がアスファルトに溜まり、緩やかに広がっていた。

紫音の視線が、そこに吸い寄せられる。


――飲め、と。


そんな言葉が頭のどこかに届く。

実際には誰も言っていない。けれど、確かに指示された気がした。

 

脚が勝手に進みそうになるのを、紫音は踏みとどまった。

両の拳を強く握る。自分の意思を確認するように。


「……まさか、俺が……?」


戦闘中に覚えたあの異常な感覚――

視界が赤く染まり、音が歪んだ瞬間。

あれは身体の異常反応でも、単なるアドレナリンでもない。

何かが動いている。内側で。

何か、別の“力”が。


だが、その思考は唐突に遮られる。


陰から、再び“それ”が現れた。

吸血鬼――。

眷属とは異なり、全身はしっかりと“人のかたち”をしている。

 

だがその動きにはまるで重力がない。滑るように地面を歩く。

服を着ているのに裸のような違和感。表情が“作られている”のが一目でわかる。


紫音の足が、咄嗟に後退した。

無理だ。これは戦えない。さっきの眷属とは別物だ。


逃げる。そう判断して踵を返したとき、吸血鬼が一歩、滑るように踏み出した。

視界が歪む。地面がねじれ、耳の奥で空気が揺れた。

このままじゃ殺される――そう思った瞬間だった。


「ったく。無理するな」


声が飛んだ。男の声。地を蹴るような足音とともに、黒い影が割り込んできた。

吸血鬼の前に立ちはだかったのは、長身の男だった。

 

白い戦闘服の裾が翻り、背中には“白鷺”のエンブレム。

髪は乱れているが、目だけがやけに整っている。光を捕まえるような鋭さ。

 

「おい子供。下がってろ。こっからは“こっちの仕事”だ」


紫音が息を呑む前に、男はもう走っていた。

スピードが違う。音も、体重も、空気の流れさえも違った。

吸血鬼がそれに応じて一歩踏み出す――が、その瞬間、男の刀が相手の首筋を通り抜けた。

吸血鬼の頭部が後方へ跳ねる。


「雑魚の分際で余裕かましてんじゃねぇよ」


その目にあるのは、確信に裏打ちされた余裕。

この男が、本物のヒルだと、紫音は一瞬で理解した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る