『突きつけられる現実』


 甘かった……と、鏡月は己の考えの甘さを心の底から痛感していた。


「なんだオイ。もう終わりか? ふざけてんのか?」

「ふ、ざけては、いません」


 床に両手両膝を付いて息も絶え絶えに反論を口にする。

 出来なかったのだ。たった十回も。

 紫丁お手製の木刀を持ち、ちゃんとした構えを取ったとき、既に嫌な予感はあった。

 重かった。重かったのだ。

 貰ったその夜は嬉しさのあまり興奮状態で感じなかった重さが、容赦なく鏡月の小柄な体を襲っていた。

 こんなにも木刀とは重い物だったのかと、驚きを禁じ得ない中で腕が下がると、即座に鋭い指摘が飛んだ。

 玄劾は黒蝶花と共に仕事に出向き、王華が囲炉裏端で静かに酒を嗜んでいる中で、鏡月は想像以上に体力も力もない自分の現実を見せつけられて打ちのめされていた。


「日中何やってたんだよ、てめぇはよ」


 苛立ちを隠さない指摘がぐさりと鏡月に突き刺さる。


「得意げな顔して『はい!』なんて言うから、それなりに出来るのかと思えば、何だその有様」

「す、すみません」

「話になんねぇな――って、何だその顔。泣き落としなんざ、オレには通じねぇぞ」


 睨まれてぐっと唇を噛んで泣くのを堪える。


「泣いて強くなれるなら、いくらでも泣きゃァいいじゃねぇか。素振り百回できるようになるよか簡単だぜ」


 囲炉裏を背に胡坐をかいた紫丁が、膝の上に肘を乗せ、その掌の上に頬を乗せた状態でせせら笑う。

 だが、その眼が全く笑っていないことに鏡月は気が付いていた。

 紫丁が腹の底から不快に思っていることが手に取るように分かった。

 初めから出来るとは欠片も期待されていないことは分かっていたが、それでも深く失望させてしまったことが悔しくて、恥ずかしくて、情けなくて。


 鏡月は、思わず落としていた木刀を握り締め直して、立ち上がった。

 腕は痺れてまだろくに力も入らない。息もまだ整い切れていない。

 それでも、生半可な気持ちで強くなりたいと願ったわけではなかった。

 構えを取る。持ち上げる。一歩を踏み出すと共に振り下ろす。

 ともすれば、すっぽ抜けて飛んで行きそうになるほど勢いよく。

 飛ばした先には紫丁がいる。絶対に木刀を飛ばすわけにはいかない状況を作って、足を戻して初めの構えに戻る。

 腕を上げる。足を一歩踏み出して、振り下ろす。

 その動作を、紫丁は気のない表情で見やり、王華は口を挟むことなく静かに酒を嗜み続ける。

 それでもやはり、連続十回が限界で。


「もう止めろ。変わりゃァしねぇよ。もう寝ろや」


 意地や根性でどうにかなるものではなかった。そんな次元の話ではなかった。

 匙を投げたような紫丁の声に、鏡月の緊張感はぷつりと切れた。

 両手と膝を床に付き、ぽたぽたと床を濡らすのは汗ではなくて涙。

 己自身の不甲斐なさが今日ほど憎らしく思ったことはなかった。

 悔しかった。悔しくて悔しくて堪らなかった。

 叫び出したい衝動も、疲れ果てて実行することなど不可能で。殊更自分自身に腹が立った。

 心の底から変わらなければならないと自分自身を叱咤する。

 甘い考えを持っていた自分を変えなければならないと戒める。

 しゃくりあげそうになるのを無理矢理抑え込む。泣いても強くなどなれないと紫丁が言っていたから。何度も何度も涙を拭う。


 それでも涙は止まらず、嗚咽も止め切れてはいなかった。

 また紫丁に愛想を付かされる。容赦ない言葉が投げつけられる。

 早く泣き止め、早く泣き止めと言いながら涙を拭うも、いくら待っても紫丁は何も言っては来なかった。

 愛想を付かされたのかと肝が冷えた。一日目にして教えることを完全に放棄されたのかと不安になった。

 堪らず顔を上げればそこに紫丁の姿はなく、この世の終わりのような顔をすれば、ひょいっとその視界が高くなった。何が起きたのか一瞬分からず戸惑うと、


「とにかく寝ろ。みっともねぇ」


 紫丁によっていつの間にか敷かれた布団の上に運ばれて、頭の上から布団を乱暴に掛けられた。

 それがどういう意味なのか分からずに混乱する。許されたのか見捨てられたのか判断が付かなかった。

 ただ、どちらにしろ、鏡月は心に決めた。何が何でも百回できるようになると。そのために何をするべきか。何を変えるべきか。

 ともすれば、ひ弱で非力な自分を呪う声が沸き起こるのを、無理矢理抑え込みながら考えに考えて、その日、鏡月は眠りについた。



 翌日から鏡月は、玄劾と共に雪かきをするようになった。

 玄劾が寒いから無理せずともいいと言っても、大丈夫! と言って取り合わなかった。

 これまでずっと何もして来なかった。何もさせてもらえなかったという事実もあったが、玄劾に拾われてからもろくなことをして来なかった。甘えていたのだ。甘えて、言われるがままに頼っていた。自分から何かをしようと積極的に動いても来なかった。

 何もして来なかった自分が、いきなり何かをしようとしたところで出来るはずがない。

 武家の家に生まれた兄は、幼少の頃から剣の稽古をしていた。力はなくとも基本の型は教え込まれていた。木剣を振るだけの基礎的な体力も身についているはずだった。

 だが鏡月は、書物ばかり読み漁り、自分から父親に教えを乞うことはしなかった。

 頼んでも教えてくれなかったかもしれない。一方で、教えてくれていたかもしれない。

 書物を読むだけでなく、独りで体を動かして鍛錬をすることも出来ていたはずだったが、己の境遇に甘んじていた。

 そんな自分が、いきなり強くなろうとしたところで到底出来るわけがなかったのだ。


 とにかく鏡月は体力を付けようとした。見るからに細い腕も小さな体も動かさなければ大きくはならない。大きくならなければ力が付くはずもない。

 理屈は分からないが、とにかく動かなければいけないと思った。

 玄劾が一度にかく雪の量の五分の一にも満たない量をせっせと削り出して捨てる。

 物の十回とせずに息が上がった。全力疾走をした直後のような息の上がり方だった。

 体温が上がり、うっすら汗すら流れ落ちる。

 その度に玄劾は休んでいていいと気に掛けるが、鏡月は意地になって頑張った。

 そうして午前中は雪かきに精を出し、昼餉を腹いっぱいに食べてよく眠った。

 午後は玄劾が草鞋を編んでいる傍で素振りの練習。

 玄劾が仕事で留守にしなければ紫丁たちはやって来ない。

 そんな生活を数日繰り返し、半月が過ぎようとしていた頃、無理が祟ったのか高熱を出して寝込む羽目になった。


 玄劾はオロオロと慣れない手つきで懸命に看病をしてくれた。

 汗を拭い、額の手ぬぐいを変え、火を焚いて温かくし、無知な自分を恥じるような泣き言を口にしていた。

 鏡月はそれを聞きながら、玄劾さんのせいではないです。自分を責めないでくださいと声なき声で訴えていた。

 これまで出したことのない高熱に意識が朦朧としていて、自分が今聞いている言葉が現実なのか夢なのかさえ分かっていなかった。

 故に、ふとした瞬間玄劾ではなく紫丁の声が聞こえたとき、寝てなどいられないと身を起こそうとした。

 直後、鏡月はコテンと即座にひっくり返され、ベシリと冷たい手ぬぐいを額に乗せられた。

 何が起きたのか分からずにいたその耳に、


『まずはちゃんと治せ、ガキが。自己管理もろくに出来ねぇで強くなれるか、馬鹿が。人の身は存外脆いんだ。無茶したところで強くなんざなれねぇんだよ』


 苛立ちを含んだその声と、妙に優しい手つきで拭われる汗が合致しなかった。

 だから鏡月は夢だと思っていた。紫丁が毒づきながらも看病をしてくれるなんてことは。

 それでも、『ありがとうございます。ごめんなさい』と告げて、深い眠りに落ちて行き――

 次に目覚めたとき、鏡月はすっかり元気になっていた。



 それからというもの、鏡月は自分の限界を探りつつ玄劾の手伝いをし、食事を取り、素振りを繰り返した。毎日毎日、飽きることなく、妥協することなく。

 そしてついに、梅の花が咲く頃、鏡月は紫丁から《優》を貰った。

 嫌みではない笑みを浮かべて『ま、まずまずだな』と言われたとき、鏡月は今まで感じたことのない達成感に心が満たされた。

 だが、相手は紫丁。一筋縄ではいかなかった。


『次は二百回だ』


 にやりと笑われ指示されて、鏡月は『はい!』と力強く請け負った。

 半月後には二百回をこなし、次は三百回を目指すように言われ、桜の花が咲き誇る頃には三百回を越えて続けてできるようになっていた。

 これには正直紫丁も感心していた。

 少し呆けた顔をして、まじまじと鏡月を見て来る顔は、絶対に口が裂けても言えないが、それまで見てきた中でも一番幼く見えた。


 その頃になると、鏡月は玄劾よりも紫丁と過ごす時間の方が多くなっていた。

 いつもは日が暮れる頃にならないとやって来ない紫丁が、昼から鏡月の素振りを見に来るようになっていたのだ。だからと言って何を言うわけでもなく、ただ静かに見守っているだけ。

 鏡月も、あえて何か教えを乞うようなこともしなかった。見られている緊張感を湛えながらひたすらしっかりと木刀を振る。

 その間玄劾は、鏡月が取られたような気がすると落ち込んでは、王華や黒蝶花に慰められながら仕事に出向き、水田が緑の草原に変わる頃、鏡月は素振りを六百回続けてできるようになっていた。


 紫丁がいなくとも誤魔化すことなく日課のように素振りをこなす鏡月を見て、玄劾は随分と逞しくなったなと褒めた。

 自分では実感がほとんどなかったが、褒められるのはむず痒くなるほど嬉しかった。

 そしていよいよ、鏡月が玄劾に拾われてから一年目。再び巡って来た雨の季節になって、鏡月はお堂にて紫丁と相対していた。

 構えを取る鏡月に対して、ただ立っている紫丁。

 好きに打ち掛かって来いと言われて、鏡月は気合を入れて打ち掛かった。

 結果は、


「え?」


 気が付くと鏡月は天井を見ていた。


「何寝転んでんだ。さっさと来い」


 言われて再度振り被って突撃。


「え?」


 両手を伸ばして床の上に寝転んでいた。

 痛みは先ほども今も何も感じない。

 それでも、何をされたのかさっぱり鏡月には分からなかった。


「まずは自分が何をされてるのか分かるようになれ。分かったら起きろ」


 それから半時の間、鏡月は転がされまくり、玄劾がオロオロと気遣わしげにもう止めたらどうだと紫丁に提案するも、否定の声は鏡月からも上がり、ころり、ころりと面白いように転がされ続けた。

 一体自分が何をされていたのか分かるようになると、今度はハッキリと痛みを伴わせながら転がされ続けた。


 お陰で鏡月は紫丁にも『手心』というものがあるのだと知った。

 後に鏡月は玄劾に受け身の取り方を日中教わることになる。

 そして、受け身が取れるようになったことを知った紫丁は満足げに笑うと、今度はちゃんと打ち掛かって来た鏡月の一撃を受け止め、明らかな反撃を返して来た。

 それでも十分手加減はしているのだろうが、想像以上の痛みと衝撃に簡単に木刀を手放す。

 わずかに芽生え始めていた自信が根こそぎ奪われる心境だった。

 そんな鏡月に、容赦ない紫丁の言葉が降って来る。


「オレらみてェな人外のモノが、ガキだからって手を抜いてやるわけねぇだろ。ましてや得物持って狙って来るんだ。オレらが視える存在はそれだけで取り込めば影響が大きい。しかもてめェは《白木の者》だ。運悪く《遮幕朧》が奪われりゃ、それで終わりなんだよ。死にたくなけりゃ、余計な事せずに玄劾に黙って匿われてりゃいいんだ。それが嫌なら死ぬ気で強くなれ。方法は自分で考えろ。敵は皆オレと同じ方法でてめェを襲うわけじゃねぇんだ。考えて考えて身につけろ。少なくともオレから一本とれるようになれなけりゃ、玄劾の手伝いなんて夢のまた夢だけどな」


 言われずとも分かっていたことだった。簡単に認めてもらえるなんて思ってもいなかった。

 それでも、言われっぱなしは悔しかった。正論だけに悔しかった。

 絶対に認めさせてやると思い立つ。絶対に泣き寝入りなんかしないと心に誓う。

 そして鏡月は立ち上がる。

 不安で不安で仕方がないと思いつつ、王華と黒蝶花に左右から袖の裾を掴まれながら見守る玄劾の前で、ひたすら痛めつけられる日々を繰り返すことになると分かっていながら、鏡月は気合を入れて打ち掛かって行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る