『飢餓の宿主』
ぐちゃぐちゃぐちゃ。
ぺちゃぐちゃぺちゃ。
戸締りされていない料理屋の暖簾を潜り、店内に入った瞬間。
「おえっ」
「汚ねっ」
待ったなしに鏡月は土間に戻していた。
「大丈夫か、鏡月?!」
大丈夫ではなかった。世界がまるで違っていた。
足を一歩踏み入れた瞬間、視界がぐらりと揺らぐほどの不快感が鏡月を襲った。
体が芯から震えていた。
物が腐ったような臭いがしたような気がした。
世界が歪んでいるような気がした。
色が濁っているような気がした。
視界が涙で滲んでまともに見えない中、体が痙攣を起こしているかのように震える。
ガタガタとガタガタと、まるで自分の体だとは思えない震えに、鏡月は動揺した。
(気持ち悪い……)
「やっぱり外で待っていろ。すぐに戻るから」
完全に血の気が引き、脂汗を流して震えている鏡月の背中をさすりながら、泣きそうな顔で玄劾が退出を促す傍で、
「駄目だ」
紫丁による容赦ない却下が飛んだ。
「ガキだろうと男だろ。一度決めたことはやり通せ」
「紫丁!」
「うるせえよ。てめえも腹括ったんじゃねぇのかよ。そいつを置いて行くなら置いて行くで構わねぇが。その代わり、二度とそいつが同行することをオレは認めねぇし、そいつのお守りも今後一切しねぇからな。それでいいならさっさと帰せ。オレはいくぞ」
「おい、紫丁!」
言うだけ言って踵を返し、二階へと続く階段へ向かう紫丁に立ち止まる気配も、話をする気配も見当たらない。
紫丁を追った玄劾の視線が鏡月へと降りて来る。その眼にははっきりと焦燥が浮かんでいた。
(ああ、困らせている)
それは鏡月の望むところではなかった。
本来であれば、堂々と玄劾の傍で玄劾の仕事を見守るはずだった。
自分に何が出来るか分からなかったが、紫丁の口振りでは何かの役に立つことが出来るのだと分かっていたから、颯爽と役目をこなして認めてもらうはずだった。それが、
(情けない)
内臓までがガタガタと震えているようだった。
断続的に吐き気が込み上げていた。それでも、
(期待を裏切ってはいけない!)
涙目になって、瘧のように震えながら、鏡月は力いっぱい唇を噛んだ。
(与えられた好機を逃してはいけない!)
嫌だ嫌だと。行きたくないと。帰りたいと訴える弱い自分の声をすべて押しのけ蓋をして。
鏡月は、満足に動かせない足を一歩、前に踏み出した。
「鏡月?!」
玄劾の驚きの声が上がる。
「いき、ます」
決意表明を口にする。
「だい、じょうぶです」
一歩。また一歩。足を踏み出す。
歩くたびに体が重くなるようだった。
視えない壁が、寒天のような柔らかく厚い壁があるような気がしていた。普段手を伸ばしても何も触れることのない空間に、伸ばせば触れられるような視えない何かが確かにあった。
その圧力を押しのけるように、鏡月は進む。
突き上げて来る吐き気の衝動を堪えながら、少しずつ、少しずつ。
その負荷がいきなり消えたのは、
「偉いぞ、鏡月。これを持て」
背後から頭を撫でて来た玄劾が差し出した提灯。
「さ。これを持てば少しは楽になるだろう。でも、二階はもっと酷いからな。覚悟するんだぞ」
「はい」と、鏡月は震える声で答え、縋るように提灯を受け取った。
そして、玄劾の言葉が偽りではないことを、二階に上り切って目撃することとなる。
◆◇◆◇◆
「おお。ちゃんと来たのか」
ようよう辿り着くと、階段の上で待っていた紫丁が小馬鹿にしたように鼻先で嗤って来た。
だが鏡月は、そんな嘲笑が耳に入らぬほどに、はっきりと届いて来たぐちゃぐちゃと言う咀嚼音と、紫丁の背後に広がる蠢くものの存在に、言葉を完全に失っていた。
青白く照らし出されているその座敷に広がる光景は、おおよそ現実の世界とは思えぬ光景だった。
「うっ……ん?!」
「飲み込め」
反射的に吐き出そうとした鏡月の口を、容赦なく紫丁が塞ぐ。結果、口いっぱいに戻って来たものを、鏡月は涙目になりながら、怖気を伴いながら飲み込んだ。
「よしよし、良く呑み込んだ。今吐いたら面倒なことになったんだ」
凄みのある褒め方をされても、鏡月は嬉しくもなんともない。
(絶対このヒトはわたしのことが嫌いなんだ)
と思いながら見返せば、何とも言い難い『良い笑顔』を返された。そして、
「よく見ろよ。アレが
鏡月の頭を押さえて、自分に向けられている視線を、強制的に目を逸らしたくなるような座敷へと移して言った。
青白い世界に横たわる子牛一頭ほどの大きさの球体が三つ。その上に群がる、大きな頭に腹だけが異様に膨れたやせ細った半透明の赤子のようなものたち。
衣は来ておらず、骨と皮だけ。髪もない。大きな目玉を爛々と血走らせて、球体に手を突っ込んでは何かを引っ張り出して貪り喰らう。
口の端からぼろぼろ、ぼろぼろ零して喰らう様は汚らしく。思わず目を逸らしたくなるほど。
しかし、がっちりと紫丁に頭を押さえられている鏡月には叶わぬことだった。
「目を逸らさずちゃんと見ろよ」
凄みだけが伝わる小声での忠告が降って来る。
「あ、れは、何ですか」
込み上げる吐き気と戦いながら小声で返せば、
「アレが《飢餓の宿主》さ。人に憑りついて、死ぬほど食い物を腹に納めさせて、夜になればああして喰われたものを取り出して喰らうんだ」
「え?」
人? と、続く言葉を鏡月は口の中だけで呟いた。
一体人がどこにいるのかと言う愚問を口にすることが出来なかった。
初めから分かっていたはずだった。目にしていたはずだった。
だが、心が拒絶していた。
子牛一頭ほどの大きさの球体が、あり得ないほどに膨らんだ人の腹だということを。
その腹から食べたものを餓鬼が引き抜いて食べているなど。
たとえ、球体の下からは成人と思われる男の足がちゃんと生えていたのだとしても、俄かには受け止めきれない衝撃があった。
「ありえません」と、鏡月は震える声で無駄な抵抗を試みた。
「人の腹があのように膨れるなんて、あり得ません。ああなる前に死んでしまいます」
「まあ、普通はそうだ」と、紫丁は楽しげに笑って応えた。
「だがな、《飢餓の宿主》に取り憑かれれば。ああなるんだよ。腹が減って腹が減って腹が減って、自分ではどうしようもない飢餓状態に陥らされて、食えるものは何でも食う。調理されていようがいまいが、時には食い物でなくとも口に入れて飲み込む。腹はどんどん膨らむ。異様に膨らむ。普通であれば胃の腑が破けて死ぬだろうさ。
だが、死なない。破れねぇんだ。だから喰らう。どこまでも喰らう。きっと苦しいんだろうさ。食っても食っても満たされない空腹感が辛いのか、満腹になっているはずなのに苦しいのに喰らい続けなければならないことが辛いのか。取り憑かれた人間どもは、悲壮感にまみれた顔で泣きながら喰らい続ける。喰って喰って喰って喰って喰って喰って喰い続けて。自分の腹が異常な膨らみ方をしていることに気が付きながらも喰らうことが止められない恐怖に染め抜かれて。日のあるうちは延々に喰らい続ける」
鏡月はゾッとした。
一体この話のどこに楽しい要素があるのか分からない。それでも紫丁は楽しげに話した。
相も変わらず固定された鏡月の視界には、膨らみ切った腹へ先を争うように餓鬼が手を付き入れ食い物を取り出して喰らっている。少しずつ少しずつその数が増え、色が付いて行くようにも見えた。人の体が埋まるほどに群がって、一心不乱に喰らっている。
「そして、日が沈めば意識を手放す」
「意識を、手放す?」
「そうさ。そうしてやっと、人間様は意識を手放して束の間の苦しみから解放されるんだ。その間、今度は憑りついた餓鬼が、ああやって外に出て来て、改めて貯蔵された食い物を喰らい始める。人間一人当たり憑りつく餓鬼の数は八から十五。その数の差はどこから来るのか知らねぇが、それだけの餓鬼が巣食うんだ。そりゃァ馬鹿みたいに喰らうわな。あいつら餓鬼はどれだけ喰らっても満たされねぇって罰を受けてる存在だからな。食っても食って満たされねぇ。
憐れっちゃァ憐れなんだろうが。本当に憐れなのは取り憑かれた連中さ。なんたって、あいつらが腹ん中のもん全部食い尽くして腹が元に戻ったとしても、目が覚めればまた同じだけの量を死に物狂いで詰め込まなけりゃならなくなるんだからな」
「え?」
殊更楽しげに発せられた結びの言葉に、鏡月は尋常ではない悪寒に襲われた。
「そうさ。この一連の出来事は一回で終わりなんかじゃない。何度も何度も繰り返すんだよ。日中は餓鬼どもが巣食っているせいでどれだけ食っても死ぬことはない。死ぬことはないが死ぬだけの苦しみだけは味わい続ける。そして、気を失って目が覚めると、束の間元の腹に戻ったことに喜ぶが、程なく凄まじい空腹感に襲われて、再び死ぬほどの量を喰い続ける。当然、何日か続けば死ぬ奴は死ぬだろうが、それが何回繰り返した後にやって来るのか誰も知らない。解放するためには、物を喰らってちゃんとした実態を伴った餓鬼どもを一網打尽にしない限り、死ねない奴らは苦しみ続ける」
生き地獄。まさに生き地獄だと鏡月は恐れ戦いた。
「だ、だったら、早く助けてあげなければ」
「だから、待ってんだよ」
「何を、ですか?」
「あいつら全員が腹ン中のもん全部食い切って、ちゃんと実体化するのをさ」
「ただ、待つのですか?」
「ああ。ただ待つ」
眩暈がした。見ているだけで吐き気が込み上げて来る光景を見続けなければならないことに。
たとえ目を瞑っても、不快極まりない咀嚼音は聞こえて来る。
玄劾が不快感を示した理由が良く解かったと鏡月は思った。
本物の怪異と言うのが、これほどまでに受け入れがたいものだとは思いもしなかった。
体がずっと震えっぱなしだった。何度も何度も嘔吐いた。吐きそうになるたびに紫丁に口を塞がれた。吐いたら最後、あいつらはてめぇを獲物に定めるぞ。と脅されれば、飲み込んだ。
長かった。終わりが来ないのではないかと錯覚するほどに長かった。
それでも腹が縮んでいく様を見続けた。茶色や青や緑色。黄土色に黒と言ったハッキリとした色彩を餓鬼たちが持つ様を見続けた。
やがて、三つの球体がすっかり凹み、満腹気に各々自由に畳の上に足を投げ出して座る餓鬼たちが、膨れた己の腹を擦るのを見て、
「さて。やるか」
隠し切れない笑みを含んで紫丁が告げた瞬間だった。
「さ。行ってこい」
トン――と、軽く背中を押された。
その際、袢纏と首元に巻いていた《遮幕朧》が剥ぎ取られる。
「え?」
と、声を上げる暇さえなかった。
やけに自分の動きをゆっくりと見ていた。
とっとっとっとっとと、敷居を跨いで座敷に乱入する。
前倒しになりそうなのを堪えて立ち止まる。そして、
「?!」
何が起きたのかと顔を上げたとき、鏡月は見た。自分に向けられる眼を。数多の眼を。
眼。眼。眼。眼。眼。
息が止まった。心の臓が止まった。時が止まった。
悲鳴を上げることなど出来なかった。
眼と眼があった瞬間、理解した。
(喰われる!)
直後、異様に目を血走らせ、耳まで口角を上げた餓鬼たちが、一斉に鏡月に襲い掛かった。
◆◇◆◇◆
鏡月は、自分に殺到して来る餓鬼たちを前に、頭が真っ白になり動けなかった。
その体が、今まさに先鋒の餓鬼の手が捕らえんとした瞬間、今度は勢いよく背後へと引かれ、代わりに風を切る唸りを上げて餓鬼に向かっていく拳を見た。
ボロ布を巻いた太い腕の先。拳が餓鬼の顔面にめり込む。
それでも、後に続いていた餓鬼たちは構わず玄劾が守る鏡月目がけて殺到した。
防御も攻撃もなかった。餓鬼たちが見ているのは鏡月(えもの)だけ。
《物の怪》の食欲を刺激する《白木の者》。極上の餌を前に、障害物は眼中になど入っていない。
故に鏡月は、半ば玄劾に振り回され、守られながら餓鬼を引き付け続けた。
なされるがままだった。どうにも出来なかった。
そんな中、短刀を構えた紫丁も嬉々と暴れ回り、餓鬼の首を胴体から分離させ、気が付けば、本当に呆気なく、全ての片が付いていた。
残っているのは腹の凹んだ武家侍らしき男が三人。眉間に深い皴を寄せ、苦悶の表情で倒れていた。
鏡月は既に三人は死んでいると思っていた。
「生きているのですか?」
しっかりと玄劾にしがみつきながら鏡月が訊ねれば、
「残念ながら生きてるよ」
紫丁が足で侍たちを突いて答える。
偽りでない証拠に、侍たちが「う~ん」と唸る。
何が残念なのか鏡月には分からなかったが、生きていると知ってホッとする。
が、すぐに鏡月は思い出す。自分が紫丁によって餓鬼たちの前に突き出されたことを。
その引き攣った顔を見て、紫丁は察したのだろう。にやりと笑ってやって来ると、ガッと鏡月の頭に手を乗せて、
「お前のお陰であっさりと片付いたぜ。さすが《白木の者》。連中の食い付きも半端なかったな。眼の色変えてお前に殺到したもんな。いつもなら散り散りに逃げ回られて
と、ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜて嘲嗤う。
やっぱり餌だったのだと突きつけられた鏡月は傷ついた。
「済まないな、鏡月」
つられて泣きそうな顔で玄劾が謝罪して来る。
その間にも紫丁は「終わった終わった」とばかりに階下へ続く階段を下りて行く。
残された鏡月はポロポロ流れる涙を何度も袖で拭った。
「辛い思いをさせてしまったな。許してくれ」
上辺だけではない心からの謝罪。
「でも、お前さんのお陰で早く片が付いたのは確かなんだ。儂ではもう使えない手だったからな」
鏡月の首元に《遮幕朧》を巻いてやる。
「でも、一匹でも取り逃していると、その人たちはまた同じ目に遭っていた。だからな、ありがとうな」
袢纏を着せられて、その上からギュッと優しく抱きしめられる。
正直、餌だと言われて傷ついた。初めから玄劾もそのつもりだったのだと知らされて傷つかないわけもなかった。
それでも、助かったと言われれば、ありがとうと言われれば、胸の奥にポゥと温かく灯るものがあった。無力な自分でも役に立てることがあった。連れて来て無駄だったと後悔させずに済んだことに安堵すらしている自分に気が付いた。
自分の実力で玄劾を助けられたわけではない。それでも、自分だから役立てたことがある。それが何よりも鏡月は嬉しかった。
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