『君の瞳に映るわたし』

兎 美香

第1章:湖のひかり

東京の雑踏を抜け、電車に揺られて2時間。佐倉美月は山梨県の湖畔の町に降り立った。10月半ばの空気はひんやりと澄んでいて、目の前に広がる湖は、まるで空の欠片を閉じ込めたように青く輝いていた。


美月はリュックからスケッチブックを取り出し、湖畔のベンチに腰を下ろした。今回の仕事は、この町で開催されるアートイベントのポスターイラストを描くこと。


クライアントからは「湖の美しさとアートの融合」をテーマに、とだけ指示されていた。


「湖、か……」


美月は呟き、鉛筆を握った。だが、手は動かない。頭に浮かぶのは、クライアントの曖昧な言葉と、自分の絵が「期待外れ」と言われた過去の記憶ばかり。


「どうせ、わたしなんかに描けないよ」


ため息をつき、スケッチブックを閉じようとしたその時、視界の端で何かが動いた。


カシャッ。


シャッター音。


美月が顔を上げると、湖の向こうで男がカメラを構えていた。茶色い髪が風に揺れ、チェックのシャツが秋の光に映える。


男はレンズを湖に向け、時折、ファインダーから目を離して水面を見つめた。


その横顔は、どこか静かで、でも強い意志を感じさせた。


美月は気づけば彼をスケッチしていた。


湖、男、カメラ。線が自然に動き、久しぶりに「描きたい」という衝動が湧いた。


「ねえ、勝手に撮らないでくれる?」


突然の声に、美月は手を止めた。男がこちらに近づいてきて、カメラを下げながら笑っていた。


「え、撮ってないよ! スケッチしてただけ!」


美月は慌ててスケッチブックを隠したが、男は興味津々に覗き込んできた。


「へえ、絵か。見せてよ」


「いや、ダメ! ただの落書きだから!」


「落書きでもいいじゃん。俺、写真撮るの好きだから、人の表現って気になるんだよね」


彼の声は軽やかで、でもどこか本気だった。


美月は渋々スケッチブックを差し出した。


男はページをめくり、目を細めた。


「これ、俺? めっちゃ雰囲気出てるね。湖と一緒に描くセンス、好きだな」


「そ、そんなことないよ……」


美月は頬が熱くなるのを感じた。


褒められることに慣れていない。


まして、こんな見ず知らずの人に。


「高瀬悠真。写真やってる。君は?」


「佐倉美月。イラストレーター……一応」


「一応ってなんだよ。めっちゃ上手いじゃん」


悠真は笑い、湖を指さした。


「この湖、特別なんだ。光が時間ごとに変わるんだよ。君の絵、絶対この湖に合うと思う」


美月は彼の瞳を見た。


そこには、湖の光と同じような揺らめきがあった。なぜか、その視線に心がざわついた。


「じゃ、またな。いい絵、描いてよ」


悠真は手を振って去っていった。美月はスケッチブックを握りしめ、湖を見つめた。


「いい絵、か……」


その言葉が、胸の奥で小さく響いた。

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