第10話 模索
待合室に案内された私は、そこで帆樽夫人と再会した。
少し席を外す、と告げていた夫人。だが、病室で待機していた時も、手術室へと通じる扉の前まで移動する際も、そこに夫人はいなかった。
「晄の手術が始まったみたいですね」
缶コーヒーを片手にゆったりと漫画本を読む夫人は、こちらが訪ねたわけでもないのに、手にした二つの物について説明を始める。
漫画は待合室に備えられた本棚から拝借し、缶コーヒーは廊下に置かれた自販機から買った、とのこと。
「お一つどうぞ」
こちらが隣に腰掛けると、夫人はソファの横から缶コーヒーを一缶、漫画本を一冊、それぞれ差し出してきた。
「ありがとうございます」缶コーヒーと漫画本を受け取り、夫人の顔を見る。「どうして、あんな嘘をついたのですか?」
「言ったじゃないですか、晄のお見舞いに来てほしかったから、と」漫画本のページをめくりながら言う姿からは、あまり信憑性を感じられなかった。「本心ですよ」
私の考えを見透かすように、夫人は言葉を付け加える。
缶コーヒーを飲み、漫画本に目を通す。
中途半端な巻数だった為、前後が全く把握できなかったが、とにかく怒涛の展開だった。
主人公らしき男の友人が次々と惨殺されていく場面。男は怒り狂い、友人を死に追いやった謎の人物に復讐を誓い、旅に出る。そんな話だった。
病院に置くにしてはあまりにも生々しく、死生観を配慮していない漫画だった。何より、登場人物が死ぬ度に、嫌でも夫人の嘘がちらついてしまう。
結局、最後まで読み終わることなく本を閉じた。
テレビの真上に掛けられた時計を確認し、帆樽晄と別れてから十分程度しか経過していないことを知る。
することもなく、掛け時計の長針と短針を眺める作業に没頭している時、隣から夫人の呟くような声が聞こえた。
「あの子は、皆が思っている程、優しい子じゃないんです」まるで独り言だった。「あの子は……、貴方が思っている程、強くはないんです」
聞かれたくない話でもするかのように、か細く、しかし私の耳に聞こえる声で呟く。
「身体が、ですか」
死の嘘のことを思い出し、聞き返す。すると、夫人は私の目を見つめ、「心もです」と悲しげな笑みを見せてきた。
「どういうことですか?」
答えは返ってこなかった。
夫人は視線を漫画本に移すが、ページをめくることもしない。ただただ、時間が過ぎるのを待っている様だった。
帆樽晄は、クラスメイトだけでなく、私のような男に対しても分け隔てなく接してくれた。それは優しさであり、心の強さにも繋がっているように思えた。しかし、夫人は実の娘に対し、優しくはなく、身体、そして心までも強くはないと、哀愁を漂わせながら伝えてきた。
待ち続ける、と言うのは、退屈を通り越して、苦痛すら感じる行為だった。
頭の中ではかつてない程に思考が巡っているにも関わらず、テレビの頭上に設置された時計の針は亀のようなペースを維持したまま。時折、帆樽夫人の横顔を伺うも、病室で娘に見せたような笑顔を作ることはなく、無表情で虚空を見つめている。
短針がいくつかの数字を通過し、考えることすら思い浮かばなくなった頃、看護師が足早にやってきた。
夫人が血相を変えて立ち上がると、看護師は落ち着いた様子で手術の成功を伝えてくる。
それを聞いた夫人は腰を落としそうになる。
私も、胸の中で複雑に絡まっていた糸が解けていくようで、無意識に溜息を漏らしていた。
看護師が夫人を誘導する。
私も後を追う為に立ち上がるが、「申し訳ありません。術後の面会はご家族の方のみとなりますので、ご友人の方は日を改めて頂く必要が」と、止められた。
「私は友人ではありません」
看護師の言葉に、私は反射的に反論していた。
面会に同行できない云々よりも、看護師から帆樽晄の友人と認識されたことが、私には気掛かりだった。
「し、失礼しました」
看護師は頭を下げ、「ご親戚の方ですか?」と尋ねる。
「違います」
看護師が首をかしげる。他に思い当たる候補が見つからず、掛ける言葉を失っているようだった。
「もしかして、彼氏さんだったりします?」
「いいえ」
否定の言葉に力が入る。
看護師は、万策尽きた様子で、「それでは、晄さんとはどういった関係なんですか?」と聞いてくる。
病室で帆樽晄に投げかけられた質問を思い返す。
『私のことはどう思っているの。帆樽晄自身は?』
長い待ち時間の間、それに対する答えを探すだけの猶予は充分にあった。しかし、私は未だにその答えを見つけられずにいた。
「模索中です」
その為、率直に答える。
ただでさえ困惑の表情だった看護師が、引き笑いを始めてしまう。それとは引き換えに、夫人は笑いを爆発させていた。何がそこまで可笑しいのかわからなかったが、とにかく、涙を滲ませる程に笑っていた。
「安心して下さい。晄にはちゃんと、貴方のことを伝えますから」
それまでの陰鬱とした表情は消え、晴れ晴れとした様子で夫人は行ってしまう。
一人取り残された私は、とりあえずソファに腰掛ける。
さて、これからどうしたものか。
日を改めるように言われたのだから、ここにいても仕方がない。かと言って、家に戻ってもすべきことなど何もなかった。
安堵によって身体の力が抜け、自転車を漕ぐことすら億劫になっているのを言い訳に、私はもう少し、ここに滞在することを考えていた。
空腹を感じ、売店で軽食を買い、待合室で食べる。満腹でもなければ、空腹でもない状態に入り、再び暇を持て余す。
隣に誰もいないことを確認すると、胸に刺すような感覚が走った。チクチクと、極小の針で何度も刺すような嫌な痛み。
それは、家にいる時や学校にいる時、時折感じることのある感覚であり、帆樽晄の見舞いの場ではあまり感じない感覚だった。
胸をさすり、視線を時計に移す。
少しずつではあるが、確実に時間は経過している。
帆樽晄の安否を待っていた分と同じだけの時間が過ぎ、更にそれ以上の時が経過した。
窓から見える景色にオレンジ色が加わる。
二度目の軽食を買いに売店に向かっていると、背後から声を掛けられた。
「あんた、晄ちゃんのお見舞いに来てた子だね」
振り返ると、看護服に身を包んだ女性がそこにいた。それも、他の看護師とは一線を画す程の存在感を醸し出している。
私よりも頭一つ以上高い身長に、それを最大限活用できるだけの筋骨隆々な肉体。美しさよりも力強さを強調する表情筋。喉風邪を患っているかのようにしゃがれた声。
もしも男性であったなら、誰もが畏敬の念を抱くような強さを滲ませる看護師だった。
「はい」
これまでの見舞いの際に、何度か目撃したことはあった。しかし、こうして話をするのは今日が初めてだった。
「今日も朝から来てたみたいだけど、晄ちゃん、今日は手術日だったろう?」
そんな巨躯な看護師も、休憩中なのか、勤務終了後なのか、今はゆったりとした様子で売店に来ている。
「そうですね」
「そうですね。ってあんた、術後は親族しか面会できないって聞いてないのかい?」
「いえ、重々承知です」
「だったらなんで――」
看護師はそこで言葉を切った。
私のよりも倍の太さはあろう腕を組み、なにやら独り言を唱え始める。
「……なるほどね」片側の口角が上がり、男勝りな笑みが零れる。「あんた、中々見どころがあるね」
そう言って、私の背中を何度も殴ってくる。いや、痛みのせいで殴られたと錯覚したが、正確には、平手で叩かれているだけだった。
「なんの話ですか?」
「謙遜しなくてもいいさ。あたしが話を付けてきてやるからさ」
こちらの話を聞こうともせずに、看護師はその巨体に見合わない軽やかな足取りでどこかに去っていった。
暴風が過ぎ去った後のような静寂が広がり、暫くすると、別の看護師が、それこそ暴風に押し出されるようにやってきた。なぜだか、顔を青くしながら。
「主任から話を聞きました。どうぞこちらへ」
腕を掴まれ、巨躯な看護師改め、主任看護師が去っていった方へ連れていかれる。
見るからに病院関係者しか入れない雰囲気の扉を潜ると、先ほどの看護師がいた。
「主任、お連れしました」
「ありがとう」
私を誘導してきた看護師は頭を下げると、そのまま退室し、私は主任看護師と二人きりになった。
事の経緯を聞こうとしたが、相手が先に口を開く。
「もう一つ先に晄ちゃんがいるよ」と、主任看護師は奥へと続く扉を指差す。
思いも寄らない言葉に驚きはしたが、私は扉の先へ駆け込むことはせずに、返事だけを返す。
「そうですか」
「会いたいかい?」
「……はい」
頷いてから、自分が帆樽晄に会いたいと願っていることに気付いた。
「なら、会えばいいさ」
その言葉を聞き、胸の奥が暖かくなるのを感じた。
力強く頷きたいと心から思ったが、私はその感情をしまい込み、首を振るう。
「いえ、遠慮しておきます」
そう言った瞬間、主任看護師の瞳が瞬く間に鋭くなった。
得物を狩る肉食動物のような獰猛さを身に纏いながら、「どうしてだい?」と柔らかい物腰で聞いてくる。
その柔らかさの奥から、殺気とすら言える感情を覚える。
「貴女が先ほど言っていた通りです、『術後は親族しか会えない』と。私はそのルールに従っているだけです」
「そんなことかい。そこはあたしが融通を聞かせてやってるんだから、気にする所じゃないよ」
「それでは、病院のルールを破ることになります。駄々を捏ねることによってルールを違えて良いのなら、皆が皆、駄々を捏ねるようになります」
私は自分自身を戒める意味を込めて、敢えて口に出した。
二度も約束を破ったのだから、せめて決まりごとだけは厳守すると。
主任看護師は僅かな思案の後、一歩、二歩とこちらに近づいてくる。
本能的に恐怖を感じ、後ずさるが、あっという間に距離を詰められる。眼前まで接近された時、主任看護師は遠慮なく拳を振り上げた。
目をつぶると、頭頂部に鈍い痛みが走った。
瞼の先にいくつもの閃光が駆け抜ける。
薄めを開いた時、眼前にいる主任看護師の姿が、別人に見えた。
その人物は、古い規律を重んじ、矮小な行いを何よりも嫌う人だった。
幼き頃、その人が私に拳を下すのは、決まって私が過ちを認めない時だった。誤って割ってしまったお椀を隠したり、寝小便した下着をゴミ箱に捨て、それらが発覚した時に、その人は静かな声と共に拳を振るった。
脳天に響く痛みは、その人がかつて、私に振るった拳とよく似ていた。
私はまた、過ちから逃げてしまったのだろうか……。
「男がガタガタ言ってんじゃないよ!」
しゃがれてはいるが、確かな女性の怒声が耳に響く。
顔を上げると、リンゴくらい軽々と握りつぶしてしまいそうな掌が迫ってくる。
逃げることが出来ないでいると、主任看護師が私の首根っこを掴み、奥に続く扉へ引きずっていく。
「邪魔するよ」
扉が開かれ、そこに帆樽晄がいた。
薄暗い部屋の端で、肩幅程しかない手術台ともベッドともつかない台座の上で、酸素マスクを装着し、毛布に身体を包んでいた。
彼女の薄目が僅かに見開く。
驚いているのかもしれないが、術後の麻酔が抜けきっていない為か、大きな反応は返ってこない。
「帆樽晄……」
生きていることを確認するように、私は彼女の名前を呼ぶ。
帆樽晄は返事をしなかったが、マスク越しに口角を上げていることがわかった。
笑みを作ろうとしている風だったが、とても笑顔には見えない。
「シャキッとしな」
主任看護師の両手が私の頬を覆い、そのまま弄り回す。最後に、両の親指で私の口角を痛い程に引っ張った。
「あんたがそんな顔してどうするのさ」
鏡がない為、自分がどんな表情をしているのか定かではなかったが、主任看護師の口ぶりから察するに、情けない顔だったのだろう。
「はい」
後押しをするように、背中を強く叩かれた。
私はその力に反発することなく、前へ進んだ。
約束を違えたことによって彼女と再会が出来、ルールを破ったことでこの場所にいることが出来た。それが良いことなのか、それとも悪いことなのかはわからない。ただ、今は痛みに苦しむ彼女の傍らにいなければならないと、強く感じた。
「帆樽晄」
再度、彼女の名前を呼ぶ。
今度は、生死を確認するような怯えた語調ではなく、居眠りする者を起こすような、力強い声で。
「……うん」
か細い声が返ってきた。
風が吹けば掻き消されそうな弱弱しいものだったが、間違っても死者が出すことの出来ない声でもあった。
「元気か?」
「うん」
「そうか」
そんなやり取りをしていると、帆樽晄の口から微かな笑い声が聞こえてくる。
「どうした?」と聞くが、帆樽晄は、「ううん」と首も振らずに応えるだけだった。
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