第2話 再入院

 『友達の作り方』と書かれた本を本棚から取り出す。

 中学を卒業し、高校に上がるまでの間に購入した数少ない品物の一つ。結局、一度として中身を開いたことのない本の表紙を見ながら、なぜ今更手に取ったのか考える。

 脳裏に過ったのは帆樽晄。

 一言二言交わしただけで、私はもう彼女の友達気取りになっているのだろうか。

 中身を開こうとして、手を止める。隙間だらけの本棚に戻し、ベッドに腰掛ける。

 過去にこの本を購入した時、私は古い友人の顔を浮かべていた。自身の現状を理解する間もなく、叔母夫妻の住む見知らぬ土地へ移され、そのまま再会することのなかった友人。

 本を手に取った時は、心のどこかで再会を期待していた。だが屍のように過ごした中学時代を思い返す内に、そんな思いも薄れていった。

 中学一年の夏、私は両親に裏切られた。

 友人と過ごす日常を剥奪され、見知らぬ地に放り出され、孤独と言う名の深海に沈められた時から、私の思考は停止してしまった。

 ひたすらに両親を憎み続け、気が付けば、誰の情けも受けずに一人で生き抜くことだけを考えるようになっていった。生死すら定かではない両親に、私は誰かの施しを受けずとも生きていけるのだと証明しなければならなかった。それだけを生きる糧とした。

 照明を操作するリモコンを掴み、仰向けになる。『消灯』ではなく、『常夜灯』のボタンを強く押し込む。

 薄暗くなっていく天井を眺めながら、改めて思う。

 私はこの本を手にしたことで、決意を固めたのだ。

 この本は、あくまで私の意思の弱さの象徴であり、未来を切り開く道具ではない。この本を眺めると言うことは、無限にある可能性を広げるのではなく、決意した狭い道筋を見つめ直すと言うことだ。

 私は一人でも生きていける程、強くならなければならない。

 常夜灯の淡い光が部屋を僅かに照らす。

 私は、それを恨めしく睨んでいた。


 黒板に板書された要綱の一つ、『今週中に千羽鶴を完成させる』。それが達成されることはなく、私が二回目の見舞いに行くこともなかった。つまるところ、帆樽晄が退院したのだ。

 見舞いから四日しか経ってはいない。

 思い返せば、担任も彼女の病状について、深刻ではない、と説明していた。

 冷静に考えれば、鶴を千羽も折る必要などどこにもなかったのだ。しかし、三百羽程折られた鶴たちからすれば、現状は深刻と言わざるを得なかった。完治してしまったが故にこれ以上を必要とされることもなく、かと言ってゴミ箱に捨てるのも躊躇われる。

 そんな彼らが最後に行きついた場所は、教室の隅に置かれた棚だった。その奥に、見つけられないよう隠されている。

 遠目から見る帆樽晄は快調に見えた。数人の友人に囲まれ、病状の心配を一度に受けているが、慣れた様子で一つひとつ受け答えている。

 担任の話が耳を過ぎ、委員長の声を横に流し、名前も定かではないクラスメイトの雑音を越えて、夕方を迎えた。

 放課後を告げるチャイムが鳴る。

 私はそれを合図に帰り支度を行いながら、頭の中で帰宅後の行動表を確認する。

 早い夕飯を摂り、早い寝床に就く。ただそれだけ。

「健之助君。もう帰るの?」

 学生鞄を背負い、歩幅を整えていると、帆樽晄の声が聞こえた。

 四日ぶりに聞く自身の名前に対し、やはり不思議な感情を覚える。手の届かない箇所が痒くなるような、奇妙な気持ちだ。

「ああ」

 歩調を早めると、彼女もそれに合わせて進みつつ、もう一つ言葉を投げた。

「お見舞い、来てくれてありがとう」

 どういたしまして、と口にしかけて、止めた。適した言葉に思えなかったからだ。

 本当に伝えるべき言葉はなんだろうか。考え、悩んだ。

 帆樽晄がここにいると言うことは、もう入院はしていないと言うことだ。それはつまり……。

「……約束、破ってしまったな」

「え?」

「すまなかった」

 戸惑う彼女を尻目に、私は教室を後にする。


 三百余羽の鶴たちが、生き生きと羽ばたいていた。もちろん、比喩ではあるが。しかし、そう思える程に、教室の隅に追いやられていたはずの千羽鶴の片割れたちは、日の目を浴びていた。それはつまり、帆樽晄が再入院した、と言うことだ。

 退院から十日後、月を跨ぐ準備が着々と進められるこの時期に、校内で倒れたらしい。

 昼休みの最中、廊下での出来事と言う話だ。

 私はその場面に立ち会っていないが、あの日と同様に、帆樽晄の席は空席だった。

 帆樽晄が倒れた昼頃から放課後に至るまでの間、教室内では幾つもの噂話が飛び交っていた。

 一人は苦しそうに胸を押さえていたと言い、別の一人は擦れるような呼吸音を聞いたと口にしていた。吐血していた、泡を食っていた、だの言う者たちもいたが、彼らは帆樽晄が倒れた時間帯に別の場所にいたことを指摘され、面白半分の誇張だと糾弾されていた。

 病状を間近で見た者たちの証言は、想像だけで病状を察しようとしていたクラスメイトの耳に生々しく残ったのか、顔を青くする者もいた。

 黙々と鶴を折るクラスメイトたち。

 彼らは、放課後であるにも関わらず、まるで授業中のような静寂の中で手元だけをせわしなく動かしている。聞こえてくるのは囁くような声だけ。

 皆、帆樽晄を心配しているのだろう。或いは、彼女が居なくなることに不安を覚えているのかもしれない。

 私は悪戦苦闘の末、どうにか形に出来た一羽の鶴を眺める。

 委員長が世迷言のように掲げた、『今日中に千羽鶴を完成させる』を果たす為には、一人でも多くの人材が鶴を折る必要があったが、私はその気になれないでいた。単純に面倒くさいと言う理由と、私がまじないの類を信用していない為だった。仮に真心を込めることで万病に効くのであれば、私の心は悪影響になりかねない。

 一羽だけの鶴をポケットに入れ、席を立つ。静まり返った教室から出ようと扉に手を伸ばしたところで、委員長の刺すような声が聞こえてくる。

山ノ下やまのした

 私は頭の中でクラス名簿を開き、その苗字に該当する人物を探し、すぐにそれが自分だと気付いた。

「どこに行く?」

「見舞いに」

「……そうか」

 特に引き留める様子も見られなかったので、私はそのまま教室を後にする。

 委員長は、私の言葉を逃げ出す為の方便と捉えたのだろうか。もし真実だと捉えたとして、千羽鶴が折り終わっていない状況でそれを許すだろうか。どちらにしろ、委員長は私がいるかいないか等、どうでもいいのだろう。

 それならそれで、こちらも気楽だ。


 小高い丘を、勢いの増した自転車と共に下っていく。

 街路樹から聞こえる蝉の鳴き声を通り過ぎ、一人暮らしをしているアパートの方面へ進む。そのまま帰ることも出来たが、途中で進路を変更し、コンビニに立ち寄った。そこで、見舞いの品を探す。

 委員長に見舞いに行くと言った手前、と言うよりは、帆樽晄との守れなかった約束を果たす為。

 見舞いの品はある程度絞っていた。

 クラスの意向の内の一つに、『見舞いの品を用意する』と言う項目があった為、皆様々な品を持っていく筈だ。

 造花や愛玩用のぬいぐるみ、暇をつぶせる書籍類など。三十人近くが押し寄せれば、あの時の見舞いのように、物量に押されてしまうだろう。だから私は、敢えて最小の品を送るつもりでいた。それも、一度役目を果たせば、後腐れもなく消えるような品を。

 条件に見合う品を購入し、再度自転車を走らせる。

 頭上では、病院付きのヘリが轟音を響かせながらどこかへ飛んでいった。

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