第3話「誰のためでもなく」

 朝の空は白く、雲は低く垂れ込めていた。

 駅のホームに、もう葵の姿はない。

 それなのに、蓮の時間だけが、あの日から動かないままだった。


 登校して、クラスメイトと挨拶を交わす。提出物を出して、当たり前のように机に座る。

 笑い声も、話しかけてくる声もある。けれど、どれも遠い。


 空虚だった。

 何かが抜け落ちて、形だけが残ったような日々。


 そして、その空白のなかで、蓮は思った。


“僕はずっと『みんなのため』って言いながら、実は、自分の気持ちから逃げてただけじゃないか?”


 誰かを守るため、誰かを優先するため。

 その“誰か”の顔を、いつから曖昧にしていた?

 本当は、目の前の“ひとり”に手を伸ばすのが怖かっただけじゃないか?


 それが、蓮の“優しさ”の正体だったのかもしれない。



 放課後、グラウンドのベンチに腰かけていた蓮の横に、隼人が無言で座った。

 彼は何も言わず、自販機の缶コーヒーを二つ、手の中でもぞもぞと温めている。


「…なあ、隼人」


 沈黙のあとで、蓮が口を開いた。


「“自分のため”に、誰かを想うのって、利己的かな」


 隼人は、驚いた顔もせず、缶を一本渡してきた。


「蓮、お前ってさ…いつも、聞き方が丁寧すぎるんだよな」


「え?」


「“誰かのため”って言っときゃ楽なんだよ。

 責任をぼかせるし、もし何か間違っても、“みんながそうだった”って言える。

 でも、“自分のため”に何かを選ぶってことはさ、そんだけ本気ってことじゃね?」


 蓮は言葉を失った。


「自分で選んで、自分で信じて、そのうえで誰かを想う。

 …それって、たぶん一番まっとうな“愛”なんじゃねーの?」


 冷えた缶を握りしめながら、蓮はゆっくりと頷いた。



 家に帰って、読みかけの倫理の教科書を開く。

 功利主義――「最大多数の最大幸福」。

 それは、どこかで蓮の“正しさ”の基準だった。


 でも、葵のことを思い出すと、どうしてもそれじゃ足りない気がした。


 あの日、あの駅のホームで、「多数」ではなく「葵ひとり」にかけるべき言葉があった。

「がんばってね」なんて、誰にでも言える言葉じゃなく、

 自分自身の、たった一つの気持ちをぶつけるべきだった。


“誰か一人のために、心を動かす”。

 それは、たったひとつの感情かもしれない。でも、だからこそ強く、美しい。


「幸福の“総量”じゃなくて、想いの“深さ”が大事なんじゃないか」


 そう思える自分が、ようやくいた。



 夜。机の上のノートに、蓮は何かを書くでもなく、ただペンを走らせていた。

 浮かんだ言葉をひとつひとつ、丁寧に並べていくように。


「誰のためでもなく、“僕のために”――それでもいいんだよな」


 小さく、でも確かな決意が、胸の内に芽吹いていた。

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