第4章:それぞれの選択

第1話:遠ざかる気配

 冬の気配は、ある日突然にやってくる。


 放課後の教室、窓の外はすっかり灰色に染まり、冷たい風がカーテンを揺らしていた。蓮がプリントを整理していると、隣の席から、ふとした声が落ちた。


「もしかしたら、転校するかもしれない」


 葵の声は、いつもより静かだった。


 蓮の手が止まる。


「……え?」


「パパの仕事、移動が決まったらしいの。まだ確定じゃないけど、多分、もうすぐ」


 窓から差し込む光は冷たく、葵の髪の毛がほんの少し震えていた。だけど、表情はいつも通り。強がってるのか、平気なのか、どちらにも見えた。


「そうなんだ……」蓮の喉は、ひどく乾いていた。「そっか」


 それだけしか言えなかった。葵は、少しだけ視線を伏せて笑った。


「ま、なるようになるでしょ。あんた、すぐ真面目な顔になるんだから」


 そう言って、鞄を肩にかけて、先に教室を出ていった。


 蓮は、立ち上がれなかった。机の上で、握りしめた拳にだけ力が入っていた。



 帰り道。


 街灯がぽつりぽつりと灯りはじめた通学路。制服のポケットに手を入れて歩く蓮の足取りは重い。道端の落ち葉を蹴っては、何度も心の中で自分を責める。


(言えばよかった)


(言いたいこと、あったのに)


(引き止めたって、いいじゃないか)


 だけど、言えなかった。怖かった。


 今まで“誰かのため”に行動することは、難しくなかった。困っている人がいれば助け、求められれば応えた。それが“正しさ”だと思っていたから。


 でも、葵に対してだけは違った。


 彼女がいなくなる――それが、ただのクラスメイトの別れじゃないと、自分でもわかっていた。


“誰かのため”じゃなく、“君のために”何かを伝えたかった。


 けれど、その言葉はどうしても、喉の奥にひっかかって出てこなかった。



 その夜。


 自分の部屋で、蓮は机に突っ伏していた。蛍光灯の白い明かりが、机の上のノートを照らしている。だけど、ページは空白のままだ。


 蓮はふと思い出す。


 葵と出会った日のこと。


 最悪の第一印象だった。正しさを茶化されて、怒りすら感じた。だけど、あの時からずっと、葵の言葉は自分の“正しさ”を少しずつ揺らし、変えていった。


 そして今。


 その葵が、突然いなくなるかもしれない――


「今まで“みんなのため”には言葉が出たのに、“君のために”は、こんなに難しいんだ」


 そんなふうに思っている自分がいた。



 翌日。


 朝の教室で、葵はいつも通りに座っていた。蓮が入ってきても、表情は変わらず、むしろどこか意識的に明るく振る舞っているようにも見えた。


「おはよう、蓮」


 名前を呼ばれるたび、胸の奥が少しだけ苦しくなる。


“普通の朝”のふりが、こんなにも辛いなんて、知らなかった。


 だけど蓮は、まだ言葉を選んでいた。


 どうすれば、葵の心に届くのか。どうすれば、自分の気持ちを伝えられるのか。


 まだ、わからなかった。



 この冬、誰かがいなくなるという現実。


 蓮にとって、それは“選択の季節”の始まりだった。

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