第10話 全てが裏になる
朝、目を覚ました瞬間、明らかに何かがおかしかった。
天井の隅が白く光って見えたのは、光の加減じゃなかった。
カーテン越しの光が、青でも白でもなく、どこか暗い赤に染まっていた。
制服に着替え、靴を履いて玄関を出る。
いつもの道、いつもの坂。
でも足の裏がアスファルトを踏んでいる感覚が妙に柔らかい。
信号の色が左右逆だった気がする。
鳥の声が、やけに低く聞こえる。
光が地面から射してきて、影が空にうつっていた。
そのとき、私は気づいた。
世界のなにかが『裏返っている』。
葉の緑が赤すぎる。雲の白が暗くくすんでいる。
シャツの白が黒に近くて、優しい緑色だったはずの看板は、毒のように強い赤色になっていた。
ネガ反転したような空の下、すれ違う人たちは普通に会話し、笑い、何も気づいていない。
私は、自分だけが正しく世界を見てしまっている気がして、その感覚に酷く気持ち悪くなった。
教室に入ると、黒板がピンク色だった。。
天井の蛍光灯が真下にあるような錯覚が、一瞬だけ走る。
クラッとして手をついたら、机の感触がやけにザラついていた。
昨日までは、もっと滑らかだったはずなのに。
「……大丈夫ぅ?」
心優が声をかけてきた。
その顔が、昨日よりもほんの少しだけ違って見える。
輪郭が少しぼやけていて、口調に妙な違和感が混ざっている。
慎太郎も「おい葵、顔色悪くな〜い?」と話しかけてきたけれど、言葉の語尾がどこか引っかかる。
口の動きと声も、ほんの一瞬ズレていた。
昼休み、私は蒼介を屋上に連れて行った。
「ねえ、もう私、限界かもしれない。なんか全部、裏返ってる。色も、感覚も、人の声も、影の向きも」
蒼介は黙って空を見ていた。
曇りのはずの空に光が斜めに差し込んで、雲の内側が微かに光っていた。
「……世界は一つではない、という考え方があります」
「それ、物理の話?」
「多世界解釈といいます。選ばれなかった選択肢が、別の世界では選ばれていた。そのすべてが、同時に存在している可能性があるとする考え方です」
蒼介の声は、いつもより少しだけ低かった。
風が吹くたびに、彼の言葉が薄く引き伸ばされるように聞こえた。
「でも、普通は『選ばれた一つ』しか見えないでしょ?」
「ええ。だから僕たちは、今ここにいる自分を自分だと信じている。――でも、それは本当に『連続している私』なんでしょうか」
「……どういう意味?」
「たとえば、今あなたが違和感を抱えている葵だとして。その葵は、昨日からずっと続いているあなたですか?それとも――今朝、この世界にやってきたあなたなんでしょうか」
言葉が喉の奥に引っかかって、私は何も言えなかった。
「記憶は連続しているように思える。でも、もし記憶が『与えられたもの』だとしたら、違和感に気づいたあなたは、もう昨日までのあなたとは別人かもしれない。そういう考え方も、あるにはあります」
蒼介は私の視線から少しだけ目を逸らした。
「哲学的には、自己は観測された記録の継ぎ接ぎにすぎない、とされることもあります。もしそうなら、あなたがあなたであることの証明は、きっとどこにも存在しない」
そのまま、彼は空を見上げた。
「……でも、もしそれが単なる哲学的な思考実験なら、まだ安全だったんです。ただの観念遊びとして、頭の中だけで完結できた」
「でも今、あなたが感じている『裏返った世界』は、もうその枠を越え始めている」
私は息を呑んだ。
風が一段と強くなって、フェンスが軋んだ音がした。
「物理の理論の中には、観測者によって確率的な結果が選択されるという考え方があります。量子の状態は、観測されるまで決まらない。でも、それが一つに収束する瞬間、それまで存在していた『ほかのすべて』は、別の世界として分岐して残り続ける」
「……そして、私たちはそのいくつかの世界を観測してしまった側かもしれない」
言葉の余韻が、世界の隅に染みこんでいくようだった。
「見てしまった世界の数が増えるほど、もともと居た世界の重みは薄れていきます」
蒼介は風の中、静かに私の方を見た。
「――それでも、選びますか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます