第8話 半生半死の猫と違和感
たぶん、最初に気づいたのは私だけだった。
昼休みに教室に戻ると、黒板の前に猫がいた。
――毛の長い、茶色い猫。
どこかの窓から入ってきたのかと思ったけど、誰も騒がない。
誰も驚かない。
「……ねえ、猫、いるよね?」
近くにいた心優に小声で言うと、
「ああ、うん。教室の飼い猫でしょ?」
と、あっさり返ってきた。
「は?」
「前からいるじゃん。まるちゃん。去年生物室で飼ってた子猫。」
私は言葉が出なかった。
猫は蒼介の席のすぐ横にちょこんと座っていて、蒼介はそれを撫でもせず、ただ見ていた。
「え、前からいたっけ……?」
「あれ?葵、猫嫌いだったっけ?」
「いや、むしろ好きだけど……」
私の頭の中に、その猫の記憶はなかった。
昨日まで、一度も見た覚えがない。
でも心優は「いた」と言う。
慎太郎も呆れ顔で「またこいつ昼寝してたんだな」と笑っていた。
誰も不思議に思っていない。
でも、この猫は昨日まではいなかったという確信だけはあった。
放課後、教室に残っていた蒼介に思い切って聞いてみた。
「ねえ、あの猫……急に現れたよね?」
蒼介は黒板をぼんやり見つめたまま、すぐには答えなかった。
教室には夕日の光が差し込んで、床に薄く影が伸びていた。
「『急に』という概念も、連続的な記憶の欠損から来ているにすぎません」
その返しに、思わず眉をひそめた。
「でも私、ほんとに昨日まではいなかったと思ってるんだけど」
「そう感じるのは、観測履歴に欠損があるからです。あなたの中では未観測だった対象が、他者によって『あったことにされた』だけ。だからそれに合わせて、今この瞬間から世界が上書きされたんです」
「……そんなのって、おかしくない?」
私の声は、少し震えていた。
理屈はわかるような気がしたけど、やっぱり何かが違うような気がした。
「それってさ、私が見てなかったから存在しなかったことにされて、でも他の人が見てたことになったから、今度は居たってことになる、ってことでしょ?」
蒼介は何も言わず、私を見ていた。
静かな視線。
でもその奥には、何か諦観のようなものが見えた。
「そんなのずるいじゃん。私の『いなかった』って感覚は? それも観測じゃないの?」
沈黙が落ちた。
風の音だけが、窓の隙間を抜けていく。
蒼介はやがて、小さく息を吐くように言った。
「『シュレディンガーの猫』って、聞いたことありますか」
「あるけど。箱の中に居る猫で、見るまでは生きてるか死んでるかわかんないってやつでしょ?」
「そう。あれは『観測されるまでは確定していない』という話です。ならばあの猫も、観測されたことで現実に存在するようになっただけかもしれません」
「……私たちが見たから?」
「あるいは、見ていたことにされた。それがこの世界で最も起こり得る改変です。誰かの意識が欠損を埋め、初めから在ったことにする」
「それ、すごく整ってるけど……すごく、気持ち悪い」
私は小さな声で言った。
蒼介は黙ったまま、こちらを見ていた。
「だってそれ、まるで……私の感覚が、みんなの記憶の都合で書き換えられてるみたいじゃん」
思わず吐き出すように言った。
「私、昨日まではまるのことなんて知らなかった。その事実が、私の中にちゃんと『あった』。でも今日になって、みんなが前からいたって言い出したら、私の知らなかった事実は間違いにされる。それが一番、……こわい」
そのとき、蒼介の目が少しだけ揺れた気がした。
でもそれが何故だったのかはわからない。
「あなたのような観測者は、貴重です」
蒼介はそう言った。
「でも世界はいつも、少数派の正しさを切り捨てて構成されています」
私は答えなかった。
それが正しいのか、間違っているのか、判断できなかったから。
そのとき、黒板の前の猫──『まる』が、まるでこちらの思考を読み取ったみたいに、ゆっくりとこちらを見た。
その目は、何も映していないようでいて、何もかも知っているようでもあった。
音もなく、猫が静かに歩いていく。
蒼介の机の下をすり抜けて、私の足元を通って、誰にも触れられないまま、夕日の中へ消えていった。
ほんのりとした毛の匂いが、制服に残った。
さっきまでそこにいたはずの気配だけが、私の体に、確かに残っていた。
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