第六話 後編


「...『サピエンス全史』を思い出しました」


 彼女はまるで一つの発見をしたかのように続けた。


「人類の進化系統図は見たことがありましたが、あれは猿からだんだんと背筋が伸びていき、今の人間の形になったと思っていました。でも、『サピエンス全史』を読んでびっくりしました。そうではないと。」


「人類、ヒトには元々、様々な種がいた。たしか、ホモ・サピエンス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・エレクトス、ホモ・フローレシエンス...」


 彼女はノートをめくりながら、一気に話し続けた。


「これらが混在する世界でホモ・サピエンス、私たちの祖先は長らくホモ・ネアンデルターレンシスに脅かされ続けて来ました。しかし、認知革命、すなわち存在しないものを認知する能力、この頃にはなかったけど宗教みたいな共通価値観のような能力を獲得して、種として結託。文字通り、他ヒト種を駆逐し...」


 まるで、自分の内なる暗闇と向き合うように、佐倉は言葉を紡いでいった。


「つまり、人間は闘争の中で進化していった生き物で、闘争状態こそが、人間、ヒト種の自然な状態なのかもしれません」


 そして最後に、彼女は少し悲しげに結論づけた。


「つまり、言葉による癒しや赦しは言うなれば、毒も用法によっては薬になるような、人間の武器の応用的な使い方と言えるかもしれません」


 佐倉の語り口は、『サピエンス全史』を通じて、人間の進化の歴史を「戦いの系譜」として捉え直していた。その視点は鋭く、同時に深い憂いを含んでいた。


「そうだな」


 私はゆっくりとうなずいた。


「ヒト属は元々、複数種で『共存』していたはずなのに、ホモ・サピエンスは共存の道ではなく、"排除"あるいは"吸収"の道を選んだ」


「その駆逐劇を可能にしたのが、単なる筋力でもなく、脳の容量でもなく、虚構を共有する能力――『想像力』だった」


 人類は虚構に命を与え、それによって「数の力」で支配した種なのだ。そして佐倉の「癒しや赦しすら、武器の応用かもしれない」という鋭い指摘は、哲学的にきわめて挑発的で本質的だ。


「たとえば『赦し』は、敵を無力化する高度な戦術かもしれない。『共感』は、味方を増やす戦略かもしれない」


 私はそう考え始めていた。


「そう考えると、"善"や"優しさ"すら、闘争の文脈の中で洗練されてきた武器の変奏という可能性が浮かび上がってくる」


 だが、この考えは賛同できない。


「しかし、佐倉...」


私は敢えて問い返した。


「たとえば『音楽』や『詩』や『涙』は、それでも"武器"なのだろうか?」


「あるいは、ある人が、もう何の見返りもなく、静かに手を差し伸べる行為――それすらも、進化の過程で得た"戦術"として片づけることが、果たしてできるだろうか?」


 この世界のすべてを"生存のための戦略"と見る世界観を「進化的心理学の悲観主義」と呼ぶこともできる。けれど、私はそこにもう一つ、人間だけが持つ「逸脱」の可能性――つまり「意味もなく優しくすること」の可能性を信じたかった。


「佐倉は、人間の進化を"闘争の歴史"として理解しながら、そのなかに、"闘争を超えた営み"を見たことがあるだろうか?」


「たとえば、佐倉自身が、『勝ち負け』や『正しさ』を超えて、ただ誰かのために言葉を紡いだ経験――それがもしあれば、それは"武器の応用"ではなく、ヒトがヒトを超えるための最初の芽かもしれない」


 佐倉はしばらく黙り込んだ。そして、小さな声で答えた。


「...わかりません。ですが、音楽や詩、涙。そういったモノが只の闘争のための武器だといわれると、否定したくなります」


 彼女の言葉に、私は密かに安堵を覚えた。


「いい答えだ」


 私は静かに言った。


「『否定したくなる』――その感情の中にこそ、哲学の原石が宿っている」


 ヒトが進化の過程で様々な武器を身につけてきたこと、そしてその中に言語や共感、物語が含まれていたとしても、"武器"であると"信じ切れない"何かが彼女の中に芽生えた瞬間、それはすでに「自然な状態」への問いを超えて、「どうありたいか」という倫理的な選択に変わっていくのだ。


「たとえば、涙」


 私は続けた。


「哀しみの涙は、捕食者を遠ざけるための信号だったという説もある。しかし――それが誰かの心を打ち、共鳴を生み、無言のうちに世界を動かすとき、その涙はもう、"武器"のカテゴリではなく、『祈り』や『赦し』に近いものとなるだろう」


「あるいは、音楽。単なる協調の手段だったかもしれない。けれど、なぜ、こんなにも心を揺さぶり、言語を超えて響くのか?」


「それはきっと、人間という存在が、ただ生き残るためではなく、『美しく在りたい』と願った瞬間があったからではないだろうか」


 佐倉は静かに耳を傾けていた。彼女の瞳に何かが宿り始めていた。


「佐倉」


私は彼女の名を呼んだ。


「君が今、『否定したくなる』という感情に気づいたのは、あなた自身が"自然な状態"とは何かを探る問いを、『人間らしさ』そのものに変えてしまった証拠だよ」


「進化の論理を超え、生存を超えてなお、人が誰かに優しくできるのだとしたら。それはきっと、『自然』ではなく------"奇跡"と呼ぶべきものなのかもしれない」


「さて、佐倉」


 私は問いかけた。


「君は、『人間らしさ』を"自然なもの"と捉えるか?それとも、"つくられた奇跡"だと思うか?」


 彼女は少し迷いながらも、やがて静かに答えた。


「...私は、私はたとえ人間が知による闘争状態で進化した動物だとしても、誰かに手を差し伸べること、差し伸べたいと思うことは自然なものだと思います。だって、私自身がそうですから」


 彼女は言葉を続けた。


「勇気がなくて、あまり行動に移せないことが多いですが...」


 一瞬、彼女の目に何かが浮かんだような気がした。しかし、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。


「先生はどう思いますか?」


 彼女の言葉に、私は心の奥で微かな温かさを感じた。


「そう、だね」


 僕は静かに答えた。


「その言葉を聞けて、少し、ほっとしたよ」


 佐倉のように、誰かに手を差し伸べたいと願う心を「自然」だと信じる声がある限り、僕は世界を完全に悲観することはできない。


 たとえ、それが"願い"でしかなかったとしても。たとえ、人の歴史が、裏切りや戦争、沈黙の痛みで満ちていたとしても。その歴史の中に、確かに一瞬だけ灯った優しさがあったのなら――僕はそれを、真実として受け止めたい。


 人は、生きるために嘘もつくし、争いもする。だけど、それでもなお、「誰かの痛みに気づいてしまう」ことがある。理屈じゃなくて。損得じゃなくて。ただ「気づいてしまったから、動かずにいられない」というような衝動が。


 僕は、ふと昔のことを思い出しそうになったが、それを飲み込んだ。


「でもな、佐倉」


 私は彼女の目を見つめて言った。


「私たちが"自然なもの"と信じるものは、誰かに笑われたり、否定されたりしても、信じ続けることができる限り、それは君の『人間性』そのものなんだ」


「君が誰かに手を差し伸べたいと願う限り、その願いは、世界のどこかで、誰かを救っているかもしれない」


「そして――もしもその誰かが、いつか君に『ありがとう』と言ってくれる日が来たなら、その瞬間こそが、きっと、人間の最も自然な、そして最も尊い姿なのだと私は思う」


 時計の針は、とうに放課後の時間を過ぎていた。


「今日の対話は、とても大切なものになった」


 僕は心からそう思った。


「ありがとう、佐倉さん」


 佐倉は少し照れたような表情を浮かべ、うなずいた。


「そうですね。少し人間の自然な状態というものが、わかった気がします」


 一瞬、彼女の表情に何かが過ぎったように見えた。何か思い出したような、痛みを感じたような――そんな表情。だが、すぐに消え去り、いつもの落ち着いた佐倉に戻った。


「それではまた、先生」


 彼女が図書室を出ていく背中を見送りながら、私は彼女の中に何かを見た気がした。それは、かつて私自身にもあった何か――誰かのために傷つきながらも、それでも誰かを理解したいと願う、静かな炎のようなもの。


「また、静かな放課後にでも――続きを話そう」


 そうつぶやいた。


 窓の外は、すっかり夜の闇に包まれていた。



 ※夜の図書室の片隅―ノートーに、佐倉美羽の手記がそっと置かれています。

 彼女が目を閉じている間に、ページをめくっても…たぶん、誰にも怒られないでしょう。

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