第36話: 名前を持つ者として、生きるなと言われた


 


夜明け前。空はまだ薄暗く、風も冷たいままだった。


壊れた廃屋の一角。崩れた壁の隙間から、かすかに風が吹き込む。


セナはまだ眠っていた。疲れ果てて、声も涙ももう出ないまま、ただスイの肩に寄り添っていた。


スイは、目を閉じていた。けれど眠ってなどいなかった。胸の奥で、眠らせたままの魂たちが、微かに震えている。


――そんな静けさを、叩くような音が破った。


 


「失礼、起きているか」


 


低く、抑えられた声だった。


扉が、音もなく開く。風に乗って、軍靴の音と鉄の匂いが流れ込んでくる。


灰色の外套。肩章には、レヴェルトの双刃の紋章。


その男は、形式的な敬礼すらなく、淡々と告げた。


 


「冒険者ギルド・ミレイダ支部を通じての通達だ。

レヴェルト国軍・対アンダナ戦域より、貴君ら二名に対し――召集が下っている」


 


スイは、何も言わずに立ち上がろうとした。けれど、膝が動かなかった。魂の損耗が限界を越えていた。


代わりに、セナがゆっくりと身を起こす。


マントの裾を握る手が、かすかに震えていた。


 


「理由は?」


「魂武器保持者であること。加えて、複数の武器を所持・運用可能であるとの記録が、ギルドから提出されている」


 


スイは、拳を握った。


魂武器を“持てる者”――それは、戦力であると同時に、“兵器”としてカウントされる存在。


だからこそ、“戦争が始まれば、狩られる”。


 


「任務名――《対アンダナ魂装戦域 第七魂装中隊補填要員》」


男が淡々と読み上げた文書には、こうも書かれていた。


 


《敵国アンダナが禁制魂術の使用を確認。

魂装国家レヴェルトは、これに対抗すべく、魂装保持者の戦力化を要請する》 


 


それは、軍事命令というより、“魂狩り”の始まりだった。


魂を持つというだけで、価値を決められ、名前を奪われ、命を戦場に投げ込まれる。


 


セナが、息を詰めるように呟いた。


「……戦うために、呼ばれたんじゃない。

殺されるために、連れていかれる……」


 


スイの胸の奥で、沈めた魂たちが微かに騒いだ。


誰も望んでいない。

誰も、そこに“名前”を見ていない。

あるのは、ただの“数”だった。


 


スイの声は、低く、かすれていた。


「……名前を持つ者を、また、使い捨てるのか」


男は答えなかった。ただ、紙を一枚置いて、背を向けた。


それが、命令書だった。


 


紙の端に、血のような赤で記されていた。


――“応じぬ場合、対象は魂装保持者として拘束・管理される”


 


選択肢など、最初からなかった。


それは、“兵器”として生きろという命令。


――人間ではなく。


 


風が吹いた。


セナが、何かを言いかけたが、声にならなかった。


スイは、紙を見つめていた。


名前のない魂たちが、心の奥で震えている。


 


(……次は、戦争で、名前が殺される)


(なら、僕がやることは、ひとつだけだ)


 


――誰よりも先に、“名前を呼ぶ”。


 


スイとセナは、崩れかけた廃屋の中、ひとつの紙切れを前に沈黙していた。

それは、冒険者ギルド経由で届けられた、正式な召集命令だった。


灰色の文字で印刷された文面の片隅に、見慣れない一文があった。


《冒険者ギルド・ミレイダ支部推薦により、魂武器適性保持者として選定》


その言葉を、スイは何度も読み返した。

脳がそれを“意味”として受け入れるまで、時間がかかった。


(あの銀貨も、金貨も。あれは、報酬なんかじゃなかった)

(“評価”だったんだ……)


静かに目を伏せる。

手のひらの中で、魂たちが微かに震えている。


(依頼をこなしたからじゃない。名前を守ったからでもない。

……ただ、“武器として使える”かどうか――その目で、測られていた)


その重さが、今になってのしかかってくる。

魂を守ろうとしたことが、皮肉にも“戦力”として評価されていた。

ギルドは、最初から見ていた。

ミレイダの喧騒の裏で、名前を呼ばず、ただ数字で査定していた。


風が吹いた。

紙片がめくれ、赤い印が目に飛び込む。


《協力の拒否時は、魂武器保持者として拘束対象となる》


それは命令ではなかった。選択肢のない“収容宣告”だった。


スイは、わずかに口を開いた。けれど言葉にならなかった。

何を言っても、それはこの紙切れひとつ分の重さにもならなかった。


彼の中で、眠る魂たちが、声にならない振動で答えていた。

それは怒りではなかった。ただ、静かな問いだった。


――君も、“評価”されてしまったのか。


セナが隣で、何も言わずに拳を握った。

彼女の目も、じっとその文面を見つめていた。


そしてその目が、どこかで見た“孤児院の外壁”と同じ色をしていた。




紙を握る指に、力が入った。


スイは、黙ったまま、再び目を落とす。


《魂武器保持者 スイは、複数適性を確認済み。使用可能状態であることを認む》


《該当戦域において“使用”を前提とした召集である》


そこに、たったひとこと添えられていた。


《使用の意志がある場合、特例待遇を考慮》


スイは、静かに唇を噛んだ。

血の味が、口の中にじわりと滲む。


(“使ってくれるなら”――だって?)


声に出そうになった言葉を、奥歯の裏で押し潰す。


(僕が、どれだけの声を抱えてきたと思ってる……)


(名前も呼ばれず、壊され、売られ、ただ“道具”として消えていった子どもたちを。

……それを“使え”って?)


紙の端がくしゃりと歪む。


スイの中で、眠らせた魂たちが微かに脈打った。

その震えは、誰の声も発さなかったけれど、

確かに――問いかけてきた。


「君は、また使うの?」


「今度は、“許可された使い方”だから、いいの?」


スイは、首を横に振った。


それは、魂たちに向けた返答でもあり、

この世界に対する拒絶でもあった。


「……名前を守るために、僕は、“使わない”と決めたのに」


その言葉は、小さな声だった。


けれど、その静けさは、

まるで世界のどこにも届かない祈りのように、残酷だった。


セナが、何も言わずに隣にいた。

ただ、手だけが、スイの袖の端を小さくつまんでいた。

それが、唯一の答えだった。


スイは、紙を見下ろした。

「使用すれば、待遇を与える」と記されたその文面は――

つまりこう言っていた。


“使えば、君にも生きていいと許してやる”


そう告げていた。


スイは、紙をそっと手放した。

それは風に乗って、床の汚泥に沈んだ。


魂たちは、黙っていた。

けれど、彼らの沈黙こそが――この世界の“本音”を暴いていた。

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