陽だまりに潜む影:2
午後の陽射しが、木の床を柔らかく染めていた。
食堂の隅に置かれた長机の上で、セナが一枚の布を広げていた。
その膝の上には、色とりどりの刺繍糸。光に透けるたび、まるで淡い花びらのように見えた。
「……スイくん、こっち来る?」
そう声をかけられて、僕は近くの椅子に腰を下ろす。
布地の端には、見覚えのある名前がいくつも並んでいた。
ティナ、リク、ユマ、カイ、ノア、メイ――
どれも、ここにいる子どもたちの名前。
セナが、少しずつ縫い進めている“記憶の刺繍”。
その隣の、まだ針を通されていない小さな空白。
「ここ、僕の分……?」
「うん」
セナは微笑みながら針を動かしていたが、ふと手を止める。
「……まだね、ちょっと迷ってて。糸の色とか、位置とか……なんでだろうね」
「僕の名前、そんなに難しい?」
「難しいっていうより、……まだ“輪郭”が定まってない感じがするの」
淡いエメラルドの瞳が、そっと僕を見る。
「みんなが呼んでる“スイくん”って、たぶんもう、この場所に馴染んでる。
でも、私の中ではまだ、少しだけ遠い」
その言葉が、胸に静かに沁みた。
“輪郭が定まらない”――
それはきっと、セナが誰よりも丁寧に、人の存在を受け止めているからこそ言えることだった。
「……ごめんね。変なこと言ってるよね」
「……ううん、なんか分かる気がする」
僕は、そう答えるしかなかった。
まだここに来て、十日。
僕は“呼ばれる名前”を得たけれど、セナの中では、まだそれは“確か”ではなかったのかもしれない。
でも、それでいいと思えた。
焦る必要なんてない。名前を呼び、呼ばれる日々の中で、輪郭は少しずつ“縫い止められていく”。
*
セナは、刺繍の針を少しだけ浮かせながら、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ、スイくん……最近、変な夢を見たことある?」
その問いに、僕は少しだけ息を止めた。
「夢……」
「うん。ここ数日、同じ夢を何度も見るの」
「どんな夢?」
「森の中。霧が深くて、誰かの声が聞こえるの。
でも、それが“呼んでる”のか、“助けを求めてる”のか分からなくて……」
セナの瞳が、布の上をさまよう。
「……あの夢を見ると、朝起きたとき、指先が少しだけ冷たいの。まるで、何かに触れたみたいに」
僕は、思い出す。
リクも、似たようなことを言っていた。
遠くで泣いている声。
動かない雲。鳥の消えた森。
「……ねぇ、セナ。最近、風の匂いが変わったって思ったことない?」
「ある」
即答だった。
「すごく小さいけど……空気の端っこに、何か混じってる気がする。
草の匂いでも、土の匂いでもない。もっと……乾いた何か」
「乾いた……?」
「うん、まるで……ずっと閉じられてた場所から漏れ出したみたいな匂い」
言葉にならない感覚が、ふたりの間で交わされていく。
見えない“なにか”が、確かに近づいている。
でもそれは、まだ誰の名前も呼んでいない。
ただ、静かに“気配”だけを落としていく。
僕たちは、その“沈黙”を聞き取ろうとしているようだった。
*
「……スイくん」
セナが静かに顔を上げた。
「もしもこの先、何かがあったら――」
「うん?」
「……誰かを守るために、自分が何を“差し出せるか”って、考えたことある?」
胸が、静かに鳴った。
その問いに、僕はうまく言葉が返せなかった。
でも、どこかで――もう答えを知っている気がしていた。
それでも、口には出さなかった。
風が、食堂の窓をゆっくりと揺らした。
*
その日の夕方、空は少し早く暗くなった。
分厚い雲が流れてきて、陽が落ちるより先に、空気が冷たくなった。
まるで“夜”が、地平線の向こうから滲み出してくるような――そんな感覚だった。
孤児院の廊下には、セナの刺繍の布が静かに干されていた。
その布の端、まだ名前の縫われていない“ひとつの空白”が、風にそっと揺れている。
「今日は早めに中に入ろうか」
院長先生の言葉に、子どもたちは素直にうなずいた。
普段ならもっと粘るティナやカイでさえ、何も言わずに玄関へ向かっていく。
(……どうして、みんな……)
何が変わったわけじゃない。
だけど、みんなが“そうしよう”と思ってしまうような空気が、確かにあった。
*
その夜は、どこか静かすぎた。
虫の声も少なくて、風もぴたりと止まっていた。
遠くの森の奥に見える木々の影が、いつもより少しだけ“密”だった。
ノアがぽつりと呟いた。
「森の向こう、……なんか、暗すぎない?」
「風がないからじゃないの?」
ティナがそう返すと、ノアは少しだけ首をかしげる。
「ううん。空が、光を落としてないだけ。……空が、見ないようにしてるみたい」
誰も、返さなかった。
でも、否定する声もなかった。
*
寝室に戻っても、なかなか眠れなかった。
ベッドの中、布団の端を握りながら、僕は天井を見つめていた。
“名前”を覚えるということ。
“誰かのために動く”ということ。
そして――“誰かを守る覚悟”を持つということ。
それが、この世界では、“魂の形”になる。
ならば僕は、何を差し出せるのだろう。
その問いが、静かに胸の中で広がっていく。
やがて、窓の外から“風”が戻ってくる。
でもそれは、昼間までの風とは違った。
どこか、冷たい。
どこか、湿っている。
――そして、“匂い”が、混じっていた。
鉄の匂い。
土の奥から掘り起こされたような、重たく、鋭い、呼吸を刺すような“血”の匂い。
僕は、はっきりと目を開いた。
……これは、“普通の夜”じゃない。
*
そのとき、廊下の向こうで――誰かの悲鳴が、上がった。
スイはまだ知らなかった。
名前を呼ぶ声が、やがて“叫び”へと変わることを。
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