名前を呼ばれた日:6
孤児院の朝は、鐘の音ではなく、小鳥のさえずりと木の扉の軋みによって始まる。
誰かが無造作に足を動かした音。
誰かが眠たいまま水を汲みにいく足音。
それらが混ざり合って、ようやく“今日”という時間が流れ出す。
僕は薄い毛布の端をぎゅっと握ったまま、まだあたたかさの残る布団の中でまばたきをした。
(……ちゃんと、眠れた)
夢も見なかった。
寝汗もかかなかった。
胸が苦しくて目が覚めることもなかった。
それだけのことなのに、涙が出そうになった。
この世界に来て――いや、それ以前も含めて、
こんなふうに“朝を迎えられた”記憶が、ほとんどなかったから。
木の床から立ち上がると、微かに樹脂の香りがした。
窓の隙間から吹き込む風は、昨日より少しあたたかくて、
その風の向こうに、“名前を呼んでくれる誰か”の声があるような気がした。
(……ここでは、ちゃんと、生きていけるのかもしれない)
そう思えた。
*
午前中、僕はセナに案内されて、孤児院の裏庭に出た。
小さな花壇。風車。雑草の隙間に小さく咲いた黄色い花。
セナは木の枝を拾って、土の上に円を描いた。
その輪の中に、いくつかの印――剣、筆、鍬、杖――を描いていく。
「この世界ではね、魂が“形”を持つのが当たり前なんだ。
それが“神から与えられた道具”って呼ばれてて……それが、その人の“役割”になるの」
彼女の指が、静かに図をなぞる。
「農業を司る人には鍬。裁縫なら針。武術なら剣。学問なら筆……。
魂のかたちが、そのまま生き方になる世界なんだ」
「……それって、決まってるってこと?」
僕がそう訊ねると、セナは少し首をかしげて、だけど真っ直ぐにこう言った。
「ううん。神が“そうなるように願った”ってだけ。
でも……それが“すべて”じゃないと思う」
「魂の形がないって、やっぱり……異端なのかな」
「珍しいよ。……でも、それが“間違い”だとは思わない」
そう言った彼女の目は、やさしかった。
「ここにいる子たちの中にはね、道具をもらえなかった子も、途中で壊れてしまった子もいる。
それでも、その子たちが“人間じゃない”なんて、誰も思ってないよ」
その声は、世界の仕組みに背を向けるようでいて、
だけど誰よりも、人の痛みに正直だった。
だから、僕は素直に言えた。
「……ありがとう。そう言ってもらえるだけで、少し、楽になる」
セナは照れたように肩をすくめて、くすりと笑った。
*
昼下がり。
神殿から僕を連れてきた神官が、無言で書状を差し出した。
それを受け取った院長先生は、文字を一瞥すると、
まるでそれに何の価値もないかのように、それを机の引き出しへしまいこんだ。
「スイくん、ようこそリールの家へ」
その声は、紙切れの言葉より、ずっと強い力を持っていた。
「ここでは、誰が“何のために”生きてるかなんて、誰も決めないの。
誰かが泣いていたら、隣に座るだけで、立派な役割よ。
お皿を運ぶのも、誰かの髪を結ぶのも、ね」
“役に立つかどうか”じゃなくて、
“一緒に生きてくれるかどうか”が、この場所の価値観だった。
不意に、胸の奥が熱くなった。
誰にも言われたことがなかった。
“ここにいていい”なんて。
「……はい」
声が震えたけれど、
それでも、ちゃんと返事をした。
院長先生は、僕の目を見て、小さく笑った。
*
夜。
みんなで囲む食卓の上には、焼きたてのパンと、少しだけ甘いスープ。
「おかわり、あるよー!」
「それ、ノアの分だから残して!」
「ティナ、それ隠してたでしょー!」
どこにでもありそうな、他愛のない声。
でも、それが“はじめての風景”だった。
スープをすくう音。
パンをちぎる音。
それらが混ざって、生きている音になっていた。
僕は、目の前にある“温かさ”に、
ただ、そっと手を伸ばした。
誰かの声に囲まれながら。
そして、こう思った。
(ここでなら……もう一度、名前を呼ばれても――怖くないかもしれない)
そうして僕は、この世界で、
“生きる練習”を始めた。
……その場所が、あんな結末を迎えるとも知らずに。
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