名前を呼ばれた日:6

孤児院の朝は、鐘の音ではなく、小鳥のさえずりと木の扉の軋みによって始まる。


誰かが無造作に足を動かした音。

誰かが眠たいまま水を汲みにいく足音。

それらが混ざり合って、ようやく“今日”という時間が流れ出す。


僕は薄い毛布の端をぎゅっと握ったまま、まだあたたかさの残る布団の中でまばたきをした。


(……ちゃんと、眠れた)


夢も見なかった。

寝汗もかかなかった。

胸が苦しくて目が覚めることもなかった。


それだけのことなのに、涙が出そうになった。


この世界に来て――いや、それ以前も含めて、

こんなふうに“朝を迎えられた”記憶が、ほとんどなかったから。


木の床から立ち上がると、微かに樹脂の香りがした。

窓の隙間から吹き込む風は、昨日より少しあたたかくて、

その風の向こうに、“名前を呼んでくれる誰か”の声があるような気がした。


(……ここでは、ちゃんと、生きていけるのかもしれない)


そう思えた。



午前中、僕はセナに案内されて、孤児院の裏庭に出た。


小さな花壇。風車。雑草の隙間に小さく咲いた黄色い花。


セナは木の枝を拾って、土の上に円を描いた。

その輪の中に、いくつかの印――剣、筆、鍬、杖――を描いていく。


「この世界ではね、魂が“形”を持つのが当たり前なんだ。

それが“神から与えられた道具”って呼ばれてて……それが、その人の“役割”になるの」


彼女の指が、静かに図をなぞる。


「農業を司る人には鍬。裁縫なら針。武術なら剣。学問なら筆……。

魂のかたちが、そのまま生き方になる世界なんだ」


「……それって、決まってるってこと?」


僕がそう訊ねると、セナは少し首をかしげて、だけど真っ直ぐにこう言った。


「ううん。神が“そうなるように願った”ってだけ。

でも……それが“すべて”じゃないと思う」


「魂の形がないって、やっぱり……異端なのかな」


「珍しいよ。……でも、それが“間違い”だとは思わない」


そう言った彼女の目は、やさしかった。


「ここにいる子たちの中にはね、道具をもらえなかった子も、途中で壊れてしまった子もいる。

それでも、その子たちが“人間じゃない”なんて、誰も思ってないよ」


その声は、世界の仕組みに背を向けるようでいて、

だけど誰よりも、人の痛みに正直だった。


だから、僕は素直に言えた。


「……ありがとう。そう言ってもらえるだけで、少し、楽になる」


セナは照れたように肩をすくめて、くすりと笑った。



昼下がり。

神殿から僕を連れてきた神官が、無言で書状を差し出した。


それを受け取った院長先生は、文字を一瞥すると、

まるでそれに何の価値もないかのように、それを机の引き出しへしまいこんだ。


「スイくん、ようこそリールの家へ」


その声は、紙切れの言葉より、ずっと強い力を持っていた。


「ここでは、誰が“何のために”生きてるかなんて、誰も決めないの。

誰かが泣いていたら、隣に座るだけで、立派な役割よ。

お皿を運ぶのも、誰かの髪を結ぶのも、ね」


“役に立つかどうか”じゃなくて、

“一緒に生きてくれるかどうか”が、この場所の価値観だった。


不意に、胸の奥が熱くなった。


誰にも言われたことがなかった。


“ここにいていい”なんて。


「……はい」


声が震えたけれど、

それでも、ちゃんと返事をした。


院長先生は、僕の目を見て、小さく笑った。



夜。

みんなで囲む食卓の上には、焼きたてのパンと、少しだけ甘いスープ。


「おかわり、あるよー!」

「それ、ノアの分だから残して!」

「ティナ、それ隠してたでしょー!」


どこにでもありそうな、他愛のない声。


でも、それが“はじめての風景”だった。


スープをすくう音。

パンをちぎる音。

それらが混ざって、生きている音になっていた。


僕は、目の前にある“温かさ”に、

ただ、そっと手を伸ばした。


誰かの声に囲まれながら。


そして、こう思った。


(ここでなら……もう一度、名前を呼ばれても――怖くないかもしれない)


そうして僕は、この世界で、

“生きる練習”を始めた。






……その場所が、あんな結末を迎えるとも知らずに。



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