異音

 夜一が、ピクリと反応した。


「寧々ちゃん、どうしたん……?」


 灼に近寄り、微笑みながらうなずく。どうやら、寧々が何か言っているようだ。


 しばらく相槌をうっていた夜一だったが、ふいに表情がこわばった。一点を見つめながら、ぶるりとその体が震える。


 夜一が見ているのは、灼が背を向けている壁だ。嫌な予感しかしない。


 灼は、覚悟を決めて振り返った。


「マジかよ……」


 壁にシミができていた。白い壁紙に、茶色いシミが滲んでいる。


 この部屋に入ったときには、なかったはずだ。シミは、じわじわと範囲を広げていく。


 灼は、その様子を信じられない思いで見つめた。次の瞬間、頬に冷たい感触があった。手の甲で拭う。水滴だった。


 反射的に上を見ると、天井にもシミがあった。その一部から、水滴が落ちてくる。


「あ、灼くん……」


「何だよ」


「聞こえる?」


 夜一の声が、震えている。


「水音だろ?」


「うん。そうやねんけど、また違う音がしてる……」


 違う音だと……?


 灼は耳を澄ませた。異常事態のせいで集中できない。それでも、なんとか神経を研ぎ澄ませて音を探った。


 滴る水の音の他に、たしかに聞こえた。


 ……コポ、コポポ。


 背中がぞくりとした。イヤな音だ。溢れてくるような。


 ……コポ、コポォ、コポポッ。


 これは、逆流する音だ。


 ……コポポ、コポ、ポポポポポポッ!


 灼は、慌ててトイレに向かった。


「ここじゃねぇ……!」


 舌打ちをしながら、今度は洗面所へ向かう。異常はない。でも、すぐ近くで音が聞こえる。


 浴室の扉を、灼が開けると……。


「わっ!」


 灼を追いかけてきた夜一が、小さく声を上げた。


 排水溝から、茶色い水が溢れていたのだ。コポコポと不気味な音を立てながら。


「な、なんやこれ……」


 夜一が、呆然としている。


 さっきまで異常がなかった洗面台の排水口からも、水が逆流し始めた。


 洗面所の壁紙からは、水が滲み出してくる。いつの間にか、床が水浸しだった。廊下から水が浸入しているのだ。


「ここを出るぞ」


 そう言って、灼は夜一の腕を引いた。


 部屋を出てエレベーターを探したが、階段のほうが早いだろうと判断して、非常階段で二階まで駆け上がった。


「ここが、青倉さんの部屋の真上……?」


「水漏れする可能性は、どう考えてもないな」


 上階の部屋で水のトラブルがあり、その影響を受けているのかもしれない。そう思って、念のため確認に来たのだ。


 しかし、青倉の部屋の真上は物置スペースだった。掃除用具が雑然と置かれているだけで、水が階下に漏れている様子はなかった。天井だけではなく壁から水が滲み出ている時点で、そもそも上階から影響を受けている可能性は低いのだが……。


「どう考えても、悪いモノじゃねぇか」


 物置スペースの扉を閉めながら、灼は夜一に文句を言った。


「うーーん……」


 夜一は、納得できないという顔だ。


「悪意しかないだろう。あれは完全に、俺たちを脅かしてるぞ。水を使って追い払ってる。部屋に入って欲しくないんじゃないか?」


「……話を聞かんと、まだ分からへん」


「話って? 幽霊にか?」


「うん」


 残念ながら、今のところ幽霊は出現していない。どこに隠れているのか。会いたくはないが、お目にかからないと問題が解決しない。少なくとも灼は、視ることしかできないのだ。


 夜一のように気配を感じ取ることができない。だから、出現してもらわないと役に立たない。


 重い足取りで、再び青倉の部屋の前に立った。


 部屋の外からは、水を確認できなかった。そっと中に入る。水浸しだったはずの洗面所の床は、不思議なことに乾いていた。


 茶色い水が逆流していた洗面台の排水口も、浴室の排水溝も、その痕跡は綺麗さっぱり消えている。リビングの壁にあったシミも消失していた。


 灼たちが初めてこの部屋に入ったとき、壁は綺麗だった。考えてみれば、おかしな話だ。


「青倉も『部屋の壁にシミが浮かんでくる』と、言ってたよな?」


「……うん」


「でも、俺たちが最初に見たときも、そして今だって、壁にはひとつもシミがない」


 これは、間違いなく怪奇現象だ。


「……逆のような、気がするねん」


 夜一が、ぽつりと言った。


「逆?」


「追い払いたいんじゃなくて。ここに、おって欲しいような感じがする。気づいて欲しいって、言ってるような気がする」


「でも、お前……。気配を感じて青くなってたじゃねぇか」


「それは『後悔』の念が強すぎて、気持ち悪くなっただけやねん」


「なんだよ、それ……」


 とにかく、この部屋に憑いているモノは悪くない。それが夜一の言い分らしい。

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