第32話 辞表提出          2025年3月7日(金)9時 

 藤堂は、浅田自動車に辞表を出すまでの三カ月間、隔週で北首汽車の開発担当総経理の夏とPC電話で会議を行った。時々は、北首汽車の夏のオフィスに訪問し、フェイストゥフェイスで会議を行った。

 内容は、浅田自動車の既存技術、将来技術、開発プロセス、世界各地に導入している商品と技術、各市場のCAFE規制等、藤堂が持っているありとあらゆる情報をシェアした。

 夏は、イギリスに留学してMBAを取得しており、共産党員ではあるが、一般の中国人とは違い、国際感覚を身に着けているジェントルマンであった。

 それ故、藤堂は、雑談形式で、英語で直接会話できる夏との会議は全く苦にならず、むしろ楽しいぐらいであった。

 藤堂は、自分が持っている浅田自動車社内の人脈を巧みに使い、自分が詳しく知らない技術や将来技術等について同僚に片っ端からヒアリングし資料にまとめた。

 それは、まるで、藤堂の卒業論文の様でもあった。

 ある日、藤堂は、北京浅田汽車の開発担当副総裁の劉から連絡を受け取った。

 北首汽車の呉董事長が、浅田自動車の山本副社長に藤堂の転職の件を話したとの事であった。

 但し、引き抜きではなく、あくまでも本人の希望という事で話したとの事であった。

 現在、浅田自動車と北首汽車の協業は非常にうまくいっており、社員を引き抜いた、引き抜かれたという様ないざこざは避けたいと北首汽車は考えたからである。

藤堂もその話を聞いて致し方ないと思った。

 そして、藤堂は、すぐに航空券を予約し、福岡に一時帰国する事にした。

 藤堂にとって、久しぶりの浅田自動車本社であった。

 浅田本社に着くと、すぐに元の職場に行き、藤堂の直属上司である乗用車開発部の小林部長のところへ行った。

「あれ、藤堂、帰って来ていたのか?」

「小林部長、大変ご無沙汰しています。ちょっとお話があります。お時間を頂けますでしょうか?」

「なんだよ、真面目な顔をして。込み入った話か?」

「いえ、十分で済みます」

「そうか。それなら、次の会議まで40分あるので、今、話そう。あっちのブースに行こう」

 小林部長がそう言うと、二人はブースに向かった。

 以前、藤堂が小林に中国赴任を承諾した場所である。

「小林部長、誠に急な話で恐縮ですが、会社を辞めさせて頂きたいと思います」

 藤堂はそう言い、上着の内ポケットに入っていた辞表を小林部長の前に差し出した。

「えっ、どういう事だい?急に。いったい何だね」

 小林部長は寝耳に水といった感じで、かなりうろたえた。

「実は別の会社に転職しようと思います。別の会社に行って開発者として新たな挑戦をしたいと考えています。私ももう51歳です。これが最後のチャンスだと思っています」

「なんでだ。藤堂には期待をしているんだぞ。OEM EVを導入した後、本社がほったらかしておいたのが不満なのか?ちょうど次のアサイメントを考えていたところだ」

「いえ、浅田自動車に不満など一切ありません。これまで色々な経験をさせて頂いた事に大変感謝しています。ただ開発者人生で最後のチャレンジをするのにふさわしい仕事が見つかったものですから」

「いったい何の仕事だ。ライバル会社に行くのか?」

「いえ、ライバル会社ではありません。北首汽車が新たに作る東京の開発デザイン会社に行きたいと思います」

「えっ?北首汽車に行くのか?北首汽車に引き抜かれたという事か?」

「いえ違います。北首汽車が日本法人を作るという事を聞いて、私から入社を希望しました」

「そうか、まあ、ライバル会社に行かれるよりはましか。しかし、山本副社長がその話を聞いたら怒るぞ。私も怒られるかもしれないな」

「大丈夫です。山本副社長は既にご存じです。小林部長にご迷惑をかける様な事はないと思います」

「そうか。それにしても残念だな。いやショックだ。もう心は決まっているのか?」

「はい。色々考えた末での決断です。申し訳ありません」

「そうか、わかった。仕方ないな。それでは、人事の規定に則って退職手続きを進めてくれ。しかし、残念というか、寂しいな。大切な戦友を失った気分だよ。しかし、これで一生縁が切れるという訳ではないので、福岡に来た時は必ず連絡をくれ。中州で一杯やろうじゃないか」

 藤堂は、小林との話を終えると人事部に行って、退職の手続きについて確認をした。

 途中退職は、社内ネットで手続きするだけで簡単なものであった。しかし、転職先が開発デザイン会社とは言え北首汽車の完全子会社であり、ライバル会社に相当するとされ、明日から出社は禁止、会社のPCや携帯電話などはその場での返却が求められた。

 これは藤堂も予測していた事なので、PCのデータは全て個人のHDDにコピーしており、PCも携帯電話も中のデータは空であった。

 そして、最後に山本副社長に挨拶に行こうと思い、人事部にあった内線電話から山本副社長の秘書の宮本に電話した。

「もしもし宮本さん?藤堂です」

「あら、藤堂さん。そろそろ電話があるんじゃないかなと思っていました」

「ちょっと急な話で申し訳ないんだが、山本副社長に会いたいんだ。時間を取って欲しい」

「藤堂さん、福岡にいらっしゃるのですか?退職のご挨拶ですよね。それが、、ちょっと言いにくいんですが、山本副社長は藤堂さんには会わないと言っています。私に、藤堂さんからアポイントメントの依頼があったら、会わないと言ってくれと言われています。そして、こう伝えてくれと言われています。ちょっと言いにくいのですが、命令なので言いますね。『二度と浅田自動車には来るな。私の前に顔を出すな』です。ちょっと酷すぎますよね」

「そうですか。わかったよ。いや、宮本さんにもお世話になったね。本当にありがとう」

「藤堂さん、私は大した事はしていませんよ。でも、また、いい男が一人、浅田自動車から居なくなってとても残念です。あっ、これセクハラではないですからね」

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