第20話 重慶経済報 2021年1月26日(火)17時
中国専用EVの開発は、順調とは言えないが一歩一歩着実に進んでいた。
藤堂は、いつもの様に、朝7時30分に運転手付きの自分のクルマに乗り込み、アパートを出発し、7時50分に会社の自分のオフィスについた。
藤堂は、朝食は、週末にミレニアムアパートの前の新城国際マンションの敷地内にある「ペコタン」で一週間分の菓子パンを買い、冷凍庫で凍らせて、それを毎朝一個、冷凍庫から取り出して、会社の自分のデスクで食べる事にしていた。
会社の自分のオフィスに着く頃には、冷凍していたパンも丁度いい具合に解凍されていた。
その日も、そのパンとインスタントコーヒーの朝食を自分のデスクで摂っていた。
その時、開発部の川上が、血相を変えて、藤堂の部屋に飛び込んで来た。
「藤堂さん、おはようございます。スミマセン、朝早くから」
「おはよう。どうした?そんなに血相を変えて」
「朝からスミマセン。実は、さっきうちのグループのローカル社員から聞いたのですが、Ⅹ888のドライブシャフトが折れるという品質問題が、ネットやSNSで大炎上している様です」
Ⅹ888とは、中国専用EVのC688のベースとなるガソリン車である。
また、藤堂は中国専用EVの開発責任者であると同時に、北京浅田汽車の開発部長でもあった為、北京浅田汽車が販売しているガソリン車も開発の責任を負っていた。
川上から、その話を聞いた藤堂は、落ち着ついた口調で川上に言った。
「まず、Ⅹ888のドライブシャフトが折れるという不具合が、中国で発生しているのは事実なのだろうか?もしくは、グローバルの他リージョンで、その様な品質問題は発生しているのであろうか?少なくとも私は、今までにそんな話は聞いた事がない。中国だけで発生しているとすれば、サプライヤーの問題か?いや、でも、中国のドライブシャフトも日本生産車と同じ構造と同じ素材を使っている。それに、今どき、ドライブシャフトが折れるなんて不具合は発生する事は無いと思うのだが。川上、まず事実確認をしてくれ。浅田本社の品質本部に連絡して、その様な市場品質情報が他リージョンから上がっているか、確認してくれ。私は、今から今川さんのところに言って、ドライブシャフトが折れたクルマが、実際にディーラーのサービス工場に入庫しているのか、それと、その情報がどれぐらいネットやSNSで拡散しているのか、確認して来る」
藤堂は、そう言うと、食べかけのパンをそのままにして、北京浅田汽車の販売担当副総裁の今川のオフィスに向かった。
藤堂が今川のオフィスに着いた時、今川の部屋のドアは閉まっていた。
北京浅田汽車の個室のドアは、木製ではあるが、ドアの中ほどに透明のガラスが組み込まれており、中の様子を覗き見る事が出来た。外から部屋の中が全く見えないと、人が中にいるのか、いないのか、わからないのと、女性が一人でその部屋に入った時に、恐怖心を感じる事があるかもしれないとの理由で、外から中が見える仕組みになっていた。
藤堂が、今川のオフィスのドアの透明ガラス部分から、部屋の中を覗くと、今川とマーケティング部の部長の沢村とカスタマーサービス部の副部長の西山の三人が、深刻そうな表情をして話しているところだった。沢村も西山も浅田自動車からの出向者である。
藤堂は、直感的に、三人はX888のドライブシャフト不具合情報について話しているのだと思った。
藤堂は、ちょうど良いタイミングだと思い、今川のドアをノックし、少し開けた。
今川は、ドアを開けたのが藤堂だとわかると、すぐに藤堂に向かって言った。
「藤堂さん、ちょうど良かった。私も沢村君と西山君の話を聞いた後に、藤堂さんのオフィスに行こうと思っていたところです」
その瞬間、藤堂は、三人が話していた内容が、X888の件であると確信した。
「今川さん、今、三人がお話ししていたのは、X888のドライブシャフトの件ですか?」
「そうです。既に藤堂さんの耳にも、その情報が入っていますか」
「ええ、先ほど、川上から聞きました。ネットやSNSで炎上しているというのは事実なのですか?」
「ええ、事実です」と今川が低い声で答えた。その返答に続けて、マーケティング部の沢村が藤堂に言った。
「実は、このニュースは三日前に、重慶経済報というメディアが報道したんです。我々も報道があった事は認識していましたが、ローカルメディアの小さな記事に過ぎないと思い静観していたんです。そしたら、その翌日に、重慶経済報のその記事を転載するメディアが次々と現れ、あっと言う間に中国全土のメディアがその記事を転載したんです。藤堂さんはご存じかどうかわかりませんが、中国では、記事の転載は法的にも許されているんです。中には、メディアとメディアが転載する事を契約しているケースもあります。それが発端で、ユーザーのSNSの投稿が増えて、北京浅田汽車は事実を公表して、リコールをすべきだ、何もしないなら北京浅田汽車のクルマを買うのをやめようと呼びかかられている状況です」
沢村の話を聞いた藤堂は、カスタマーサービス部の西山に聞いた。
「西山君、市場でX888のドライブシャフトが折れるという不具合は、本当に発生しているのか?」
「いいえ、先ほど、北京浅田汽車のここ半年の不具合修理のデータを確認しましたが、X888のドライブシャフトが折れるという様な不具合は、一件もありませんでした」
「そうか。今、川上が念のためグローバルでその様な不具合が発生したケースがあるか、本社の品質本部に確認を取っている。ただ、私は、X888のドライブシャフトが折れるという話は今まで聞いた事はない。今川さん、何で重慶経済報は、その様なうその記事を書いたのですか?」
「藤堂さん、金ですよ。つまり、彼らは広告が欲しいのです。彼らは広告を出稿するから、記事を消してくれと北京浅田汽車が言ってくるのを待っているんです。中国のメディアは、全て共産党の中央宣伝部に帰属しているくせに、たまに、この様な恐喝まがいな事をやってくるやからが現れる」
「では、この不具合が事実でないなら、放っておいても大丈夫ですかね?私は、浅田自動車の商品品質に自信を持っています。放っておいても、その内、噂は消えるのではないでしょうか?」
すると、マーケティングの沢村がすかさず言った。
「藤堂さん、それはダメです。実はタイミングが悪いんです。もうすぐ3月15日ですよね。藤堂さん、3月15日が何の日かご存じですか?中国では、3月15日は『消費者保護の日』なんです。この日は、中国の全メディアは、消費者の権利を保護するという建前で、中国に存在する全ての商品やサービスの品質問題について報道します。一番影響力があるのは、夜8時から放送開始するCCTVの『315挽会』というテレビ番組です。この番組内で品質問題を暴露されたメーカーは窮地に追い込まれます。過去、日本の化粧品ブランドが、化粧品の成分について問題指摘され、販売中止に追い込まれ、最後には中国市場から撤退しました。韓国ブランドのタイヤメーカーも同じくタイヤ成分の問題が指摘され、そのタイヤを量産車に採用している自動車メーカーは、リコールを発表させられる事態になりました。ですので、このタイミングで、品質問題が炎上するのは非常に危険なんです。まあ、敵もそれを知っていて、うその報道を流していると思うのですが」
「そういう事か。で、どうする?」
沢村が答えた。
「はい、既に私のパートナーの中方の副部長が動いています。契約しているPR会社を通して重慶経済報にコンタクトしています。我々としては、重慶経済報に年間の広告出稿を約束して、ネットで上がっている記事を消去してもらおうと考えています。同時に重慶経済報に、転載先に連絡してもらい、転載記事もネットから消去してもらおうと思っています。印刷された新聞記事はどうにもなりませんが、ネット記事はずっと残りますからね。」
「えっ?相手の脅しに屈するという事?それより、X888のドライブシャフトには何ら問題ないという事をきちんと説明して、納得してもらって記事を取り下げてもらう事が必要なのでは?」
その時、今川が藤堂に言った。
「藤堂さん、中国では、そんな綺麗事は通用しませんよ」
藤堂は、全く納得出来なかったが、ここは、「餅は餅屋に任せよう」と思い、今川のオフィスを出た。
藤堂は、自分のオフィスに戻った後、すぐにC688の週例開発進捗会議に出席した。
藤堂は、先ほど、今川には言わなかったが、C688もX888と同じドライブシャフトを使用している。EVとガソリンエンジンでは、トルクはEVの方がはるかに大きい。従いドライブシャフトにかかる負荷もガソリンエンジンよりEVの方が大きい。しかし、浅田自動車本社の実験部のテストでは、X888のドライブシャフトでも十分に、EVの高トルクに対する耐久力はあるという結果であった。
開発進捗会議が終了し、自分でデスクに戻ってみると、開発部の川上とマーケティングの沢村からEメールが入っていた。
川上のEメールの内容は、浅田自動車本社の品質本部に確認したところ、グローバルのどこのリージョンからも、X888のドライブシャフトが折れるという市場品質情報は提出されていないという事であった。
藤堂は、X888のドライブシャフトが折れるというのは、ウソである事を確信した。
そして、次に沢村のEメールを開いた。
内容は、PR代理店が、ウソの記事を書いた重慶経済報にコンタクトし、北京浅田汽車マーケティングの副部長の孫が、重慶経済報に会いに重慶に行くので、藤堂も同行して欲しいという内容であった。藤堂に同行して欲しい理由は、重慶経済報がウソの記事を書いたのは、広告が欲しいだけとはわかっているが、一応、形だけでもいいので、X888のドライブシャフトは問題ないという事を技術者として説明して欲しいとの事であった。また、同時に、グローバルのどこの市場でもその様な不具合は発生していないという事を浅田自動車の開発を代表して言って欲しいとの事であった。開発部での王副部長では、グローバルの状況は説明できないので、是非、日本人の藤堂に同行して欲しいという内容であった。
そのEメールを見て、藤堂は少し躊躇したが、そんなウソ記事を書いた記者の顔を見てみたいという気持ちもあったので、マーケティングの孫副部長に同行する事を承諾した。
その二日後、藤堂とマーティング部副部長の孫と通訳の宋の三人で、会社を正午に出発し、北京首都空港に向かった。
藤堂は、重慶経済報に会いに行くのが三人だけと知って少し驚いたが、孫から、「こういう脅しに対する和解交渉は、人数は少ない方が、相手も交渉に応じやすい」と聞いて、確かにそうかもしれないと思った。
三人は重慶空港に着くと、すぐにタクシーで重慶市内に向かった。
タクシーが、「重慶火鍋天下宴博物館」という場所の前で止まった。名前が「博物館」となっていたが、実態は、高級な火鍋レストランであった。
藤堂は、タクシーを降りる時に、アイフォンで時刻を確認すると、午後5時が表示されていた。
藤堂は、通訳の宋に「ここで交渉するの?」と聞いた。宋も少しおどろいた様で、すぐに中国語で孫副部長に同じ事を確認した。
孫副部長の回答は、「そうです。重慶経済報の江編集長がここを指定してきたんです。食事をしながら話しましょうと言われました。私も、少し酒が入った方が、和解交渉がしやすいと思って承諾しました」
藤堂は、かなり緊迫したシビアな交渉をイメージしていたので、場所が火鍋屋と知り、少し拍子抜けをした。
火鍋屋の店員に案内され、個室に入ると、二人の女性が椅子から立ち上がり、藤堂達を迎え入れた。
一人は、45歳ぐらいの小太りのおばさんで、上下薄いピンク色のスーツを着ていた。もう一人は、25歳ぐらいの痩せた若い女性で、上下紺色のスーツを着ていた。
孫は、「こんにちは。江総編(江総編集長を意味する中国語)。お待たせして大変申し訳ございません」と言いながら、名刺交換をした。
親しそうにしているが、名刺交換をするという事は、初対面なのだろうと藤堂は推察した。
藤堂も孫に続き、江編集長と名刺交換をした。すると江が藤堂に向かって、英語で話してきた。
「Hi, nice to meet you! I am Jiang from Chongqing Economy News」
江編集長が、英語で話してきたので、藤堂も英語で返した。
「Hi Jiang san, Nice to meet you too, My name is Todo. I am an engineer of Beijing Asada Automobile.」
藤堂がそう言うと、先ほどまでこわばっていた江編集長の顔に、少しだけ笑みがこぼれた。
藤堂は、もう一人の若い女性とも名刺交換をした。彼女の肩書は「助理」となっていた。つまり秘書の様なものである。
五人が円卓に着席すると、孫が口火を切った。
「江編集長、今日はお忙しいところ時間を取って頂きありがとうございます。美味しい火鍋を食べる前に、私達が北京から重慶に来た理由をお話したいと思います」
すると江編集長がすかさず話に割って入った。
「孫さん、そんな周りくどい言い方をする必要ありません。あなた方の目的はわかっています。御社のクルマのドライブシャフト不具合の件でしょ?」
「江編集長、それでは、単刀直入に申し上げます。重慶経済報が書いた記事が、中国全土に拡散され、私達は非常に困っています。このままでは、C2(X888の量産車名)は売れなくなってしまいます。記事を取り下げて頂けませんか?もちろん、タダで取り下げて欲しいとは言いません。もし、記事を取り下げて頂けるのであれば、我々は、重慶経済報に一年間、広告を出稿する事をお約束致します」
「なるほど、そうですか。孫さん、重慶経済報のネットに上がっている記事は、私の一存で消す事が出来ますが、他のメディアの転載記事は、どうするつもりですか?」
「江編集長、大変申し上げにくいのですが、それも重慶経済報から、転載しているメディアに、取り下げをお願いして欲しいのです。我々では、出来ませんので」
「それは、ちょっとした大仕事ですね。。。」
そこまで孫副部長と江編集長が話すと藤堂が話に割って入った。
「江編集長、私は浅田自動車の技術者です。C2のドライブシャフトが折れるという事例は、中国でも他国でも一件も発生していないのですが、重慶経済報さんはどこからその不具合の情報を入手したのでしょうか?」
すると、江編集長は少しムっとした表情になり、藤堂に向かって言った。
「藤堂さん、私達は、重慶のユーザーと自動車修理工場を取材して、その情報を入手しました。折れたドライブシャフトが写っている写真だってあります」
「そうですか。技術的に今どきドライブシャフトが折れるなんてありえないのですが」
通訳の宋は、とても訳しにくそうだった。それを見た孫副部長が、割って入り、江編集長に向かって言った。
「江編集長、藤堂さんは、浅田自動車を代表する開発責任者なので、江編集長が、何か技術的な事を疑問に思っていて、何か聞きたい事があるのであれば、何でも質問して下さい」
すると、江編集長が言った。
「私は、技術的な事で聞きたい事は何もありませんよ。孫さん、御社の要求はわかりました。しかし、私がその要求を受け入れるには、一年間の広告出稿だけでは不十分です。二つ条件を追加させて頂きたいと思います。その条件を飲んでくれたら、三日以内に、重慶経済報のネット記事のみならず、他メディアの全ての転載ネット記事も削除します。お約束します。そうすれば、315(3月15日の消費者保護の日)にも間に合うでしょう?」
「本当ですか?それでは、是非、追加の二つの条件をお聞かせ下さい」と孫副部長は言った。
「一つは、今後三年間、北京浅田汽車が行う新車発表会や試乗会などのメディアイベントに重慶経済報を必ず招待して下さい。孫さんは、今年に入って、急に、北京浅田汽車が弊社をイベントに招待しなくなった事をご存じですか?我々としては、軽視された様で、非常に不愉快です。なぜ、重慶を代表する弊社の様なメディアが、イベントに招待されなくなったのか、私は理解出来ません」
中国では、メーカーがメディアイベントにメディアを招待する時は、メーカーは、交通費、ホテル代、車馬費(交通費の様に聞こえるが、実態は日当手当)の全てを負担する習慣となっていた。
藤堂は、この話を聞いて、重慶経済報がドライブシャフト不具合の記事を書いた最大の理由は、このイベント招待取り消しに対する報復なのかもしれないと思った。
江編集長は、不満をあらわにした表情で、更に続けた。
「二つ目の条件は、簡単です、この赤ワインを一本飲んで下さい。そして謝罪の気持ちと誠意を私に見せて下さい」と言い、手元の赤ワインを指さした。
江編集長がそう言い終わると、江編集長の助理は、すかさず赤ワインのボトルを取り上げ、あらかじめ店に用意させておいたワイングラスに、ワインを注ぎ始めた。四つの少し大きめのワイングラスに、なみなみに、ワインが注ぎ込まれた。
二つの条件を聞いた孫副部長は、江編集長に返答した。
「江編集長、わかりました。まず、メディアイベント招待の件は、大変失礼致しました。会社に戻り次第、事情を確認しますが、今後は、重慶経済報を必ずイベントに招待する様に致します。私が約束します。二つ目の条件ですが、もちろん私の誠意を見せたいと思います」
孫はそう言うと、席から立ち上がり、江編集長のところまで歩み寄り、四つ並べてあるワイングラスを一つ取り上げ、両手でワイングラスを持ち、江編集長にそのグラスを掲げると、一気にゴクッゴクッと赤ワインを飲み始めた。
その姿を見ていた藤堂は、「また始まった、くだらない中国酒文化が」と思っていた。
藤堂は、その時、なぜ中国にはこの様な悪質な酒文化が存在するのだろうと考えた。
中国人は、酒を大量に飲む事はつらい事だとわかっている。時には、命を失う危険すらともなう。だから、大量の酒を飲む事が、謝罪、誠意、忠誠の証となるという論理なのだと思った。
孫副部長は、一杯のワインを飲み終わると、すぐに二杯目を手にして、ゴクッゴクッとワインを飲み続けた。そして、三杯目を半分ぐらい飲んだところで、孫のワインを飲むペースが遅くなった。そして四分の三を飲んだところで、孫の喉が止まった。
藤堂は、孫が可哀そうになり、「もうそれぐらいで、いいじゃないですか」と言おうと思った。しかし、そんな事を言って、先ほど交わした約束を無かった事にされたら、ここまでの孫副部長の努力が水の泡になると思ったので、発言をぐっとこらえた。
孫副部長はそれでも何とか三杯目を飲み干した。だが、孫の目は充血しており、額からは汗が流れており、かなり苦しそうな状態であった。
そして、孫副部長が四杯目のワイングラスに手を伸ばした時、藤堂は、反射的に「Please wait(待って下さい)」と言った。
少し大きめの声で言ったので、江編集長と孫副部長は驚いた表情で藤堂を見た。
藤堂は、江編集長に言った。宋も雰囲気を悟ってすぐに通訳した。
「江編集長、孫さんはもう限界の様です。ですので、その最後の一杯は、私に飲ませて頂けませんか?」
「ほう、日本人のあなたが、中国人を助けると?北京浅田には中日の垣根を超えた団結力があると言う事ですか。いいでしょう。では、藤堂さんが、最後の一杯を飲んで下さい」
「ありがとうございます」
藤堂はそう言うと、席を立ちあがり、江編集長の前まで歩みよった。その間、通訳の宋が、孫副部長を介添えして席に座らせた。
藤堂は、江編集長に四杯目のワイングラスを掲げ、江編集長に目を合わせると、一気に、グラスになみなみ注がれた赤ワインをゴクッゴクッと飲み干した。
藤堂が、ワインを飲み干すと、江編集長は拍手をしながら言った。
「素晴らしい。北京浅田汽車の誠意を感じましたわ。これを以て、重慶経済報と北京浅田汽車の和解は成立したとしましょう。それでは、食事にしましょう。皆さん、お腹がすいたでしょ」
江編集長はそう言ったが、少なくとも藤堂と孫副部長はワインでお腹がいっぱいであった。
すると、孫副部長が、突然、「ちょっと失礼」と言い、席を立って部屋を出ていった。
そこに居た全ての人は、孫副部長がトイレに、嘔吐しに行った事をわかっていた。
孫副部長は、嘔吐すると元気を取り戻し、江編集長も北京浅田汽車の対応に満足したらしく、その部屋の雰囲気は一変し、その後の宴会は、非常に盛り上がった。
孫副部長が、現在、北京浅田汽車で新型EVを開発しており、藤堂はその新型EVの開発責任者でもある事を説明すると、江編集長は、重慶のEV市場もどんどん大きくなっているので、是非、重慶経済報が主催する重慶経済フォーラムで、藤堂に講演を行って欲しいと言い出すほどであった。
宴会が始まり、二時間ほど経つと、藤堂も孫副部長も江編集長もかなり酔っ払った。
藤堂は、最初の息詰まる交渉はいったい何だったのかと、馬鹿馬鹿しく思えた。
孫副部長が会計を済ませ部屋に戻ってくると、江編集長が孫に言った。
「孫さん、あなた方は、今日は、どこのホテルに泊まるのですか?」
「えーと」と孫が回答するのにまごついていると、通訳の宋がすかさず「重慶ヒルトンホテルです」と答えた。
「そうですか。では、重慶ヒルトンホテルの近くにカラオケがありますから、ちょっと酔い覚ましに歌いに行きましょう。こんなに食べてすぐに寝たら消化にも悪いですから」
と江編集長が言った。
藤堂は、「勘弁してくれよ」と思ったが、孫副部長は、「そりゃいい、是非、行きましょう」と言った。
藤堂は、孫副部長は、本当は自分も行きたくない、でも行かないと、このおばさんの機嫌を損ねる事になる、と思っているのだろうと思った。
そう考えると、孫副部長に対する同情心も沸いてきたので、藤堂もカラオケに付き合う事にした。
五人は、二台のタクシーに分乗し、火鍋屋から重慶ヒルトンホテルまで移動した。
カラオケに行く前に、一旦、ホテルにチェックインし、荷物をホテルに預ける事にした。
チェックインが終わると、通訳の宋が藤堂に言った。
「藤堂さん、私は少し疲れましたので、カラオケには行きたくありません。申し訳ありませんが、皆さんとは、英語でコミュニケーションを取って頂けますか?」
藤堂は、宋がかなり疲れている様子であったのと、カラオケでのくだらない会話は英語で十分だと思ったので、宋がカラオケには行かない事を承諾した。
それから、藤堂、孫副部長、江編集長、その助理の四人は、ホテルから歩いてカラオケに行った。
カラオケは、ホステスがいる様ないわゆるKTVではなく、日本のカラオケボックスの様な普通のカラオケであった。
四人は部屋に入ると、ウイスキーの水割りを飲みながら、それぞれが自分の好きな歌を歌った。四人ともかなり酔っていたせいか、まったく羞恥心もなく、各人が、自分が歌いたい歌を熱唱した。藤堂も皆の期待に応えて、「北国の春」など、日本の有名な曲を披露した。
カラオケでは、向かって左から藤堂、江編集長、孫副部長、助理の順番でソファに座った。
30分ぐらい経つと、孫副部長と助理が二人で仲睦まじく話す事が多くなってきた。
一方、江編集長は藤堂に、英語で盛んに話しかけ、時々、藤堂の腕に手を添えるなどのボディタッチもしてきた。
藤堂は、江編集長から出身地や家族構成など色々な事を聞かれた。江編集長は、日本にも何回か行った事があるとの事で、次回は富士山に登りたいと言っていた。
二人はそんな会話をして盛り上がっていたが、突然、江編集長の目がうつろになり、藤堂を見て言った。
「あなたは、とてもいい男ですね。私の好みです。私は、あなたの事を好きになりました」
藤堂は耳を疑った。このおばさん、突然、何を言い出すのかと思った。しかし、藤堂は、日本男子らしく紳士的に返した。
「好きになって頂き、とても光栄に思います。私もとても嬉しいです」
すると、江編集長は、社交辞令で言ったこの藤堂の回答を本気と捉えたのか、突然、藤堂の左手を両手で握り言った。
「じゃあ、今晩は一緒に寝ましょう。スリープ。スリープ」
これには、藤堂も焦った。そして、
「ごめんなさい。私は、今日はとても疲れています」というのが精いっぱいであった。
すると、江編集長は藤堂の本当の気持ちを悟ったのか、少し悲しそうな表情で、藤堂に言った。
「では、藤堂さん、ハグをしましょう」
藤堂は、ハグで貞操が守られるならお安い御用だと思い、「もちろん」と言いながら、立ち上がり江編集長に向かって両手を開いた。
江編集長もすぐに立ち上がり、両手を開き、藤堂に抱き着いた。
藤堂は、江編集長が凄い力でハグしてきたので驚いた。江編集長は、なかなか藤堂から離れようとはせず、二人のハグは一分間続いた。
二人が突然ハグを始めたので、隣にいた孫副部長と助理はびっくりして二人のハグを注視した。
そして、江編集長が少し力を緩めたので、藤堂は、ハグがやっと終了すると思い、安心したその時、江編集長は、藤堂の胸から顔を上げるとすぐに、背伸びをして藤堂の唇に自分の唇を当てた。不意打ちのキスであった。
びっくりしている藤堂に向かい、江編集長は、ニコニコしながら「I love you」と言った。
それを見ていた孫副部長と助理は、拍手をしながら「オー、藤堂さん、幸せですね」と茶化した。
藤堂も、これは酒に酔った勢いで起こった冗談で終わらせるしかないと思い、笑いながら「私はとても幸せです」とおどけて答えるしかなかった。
その後、四人は、大笑いしながらカラオケを出た。いつの間にか、会計は既に孫副部長が済ませている様であった。
カラオケの玄関に着くと、助理が、滴滴(中国の配車アプリ)を使って、タクシーを呼んでいたらしく、江編集長と助理はそのクルマに乗り込み去って行った。
藤堂は、胸を撫でおろした。江編集長が、本気で藤堂と一緒にホテルに行くと言い出すのではないかと、かなりビビッていた。いくら女好きの自分でも、あの江編集長の相手は出来ないと思っていた。助理の方だったらまだしも、と余計な事を考えた。
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