【短編集】声の中に眠る物語
さとの
人生はバンジージャンプのごとく(第1話)
「俺、会社辞めようと思うんだ」
いつものように妻と夕食を囲みながら、俺は何の前触れもなく、そう言った。
夕飯の味噌汁を口に運んでいた妻の手が、ぴたりと止まった。
湯気の向こうで眉がわずかに動く。
「……また急にどうしたの?」
俺は、箸を置いて言った。
「もっと、人の顔が見える仕事をしたいんだ」
今の仕事は、オフィスでパソコンを前に、現場から上がってきたデータや数字をいじっては報告書を書いたり、各地の支所への通達を作る業務がメインだった。現場とのつながりは薄く、そのことにずっともどかしさを感じていた。
しばらくの沈黙の後、妻は小さくうなずいた。
「そう、わかった」
あの瞬間、彼女が何を思ったのかは、今でも聞けていない。
*
元々、祖父が陶芸職人だったという背景もあって、俺は地元の焼き物や工芸品を扱うセレクトショップを作りたいと考えた。
日常でも使える、きらりと光る作品がたくさんあるのに、年々売り上げは落ちていき、後継者不足もあって、廃業していく工房や窯元が後を絶たないのを、ずっと近くで見ていたから。なんとかならないか、という思いはずっと持っていた。
ネットやSNSを駆使して、今まで工芸に興味のなかった人にもリーチする。そうすれば、新たな顧客を開拓できるのではないか。
最初の一年は、まあ、地獄だった。
焼き物の窯元や職人の工房を、一軒一軒訪ねて歩いた。山奥の登り窯、路地裏の染物屋、寡黙な木工作家。
「写真撮ってネットにのせる? 俺の器を?」
最初は相手にもされなかった。でも、何度も通って話を聞いた。
真夏のくそ暑い日も、雪がちらつく日にも、工房の扉を叩いた。
「あんたがそこまで言うなら、お任せしましょう」
少しずつ、信頼は積み重なっていった。
……が、その頃、世界的な感染症の流行が、例外なく地元にも襲いかかった。
展示会もマルシェも全滅。せっかくオープンした店にも閑古鳥が鳴いた。
「大丈夫なの?」
妻がぽつりと聞いた夜、俺は不安を押し隠して、強気に答えた。
「わからん。でも、やるって決めたから、なんとかするよ」
そう言いながら、正直どうすればいいのか分かっていなかった。
「……そう」
妻も不安そうだったが、それを口にはしなかった。
ただ黙って、俺がやる作業の手伝いをしてくれたり、一緒になって、どうやったら商品が売れるか、考えてくれた。
*
ある日、ふと思い立って、とあるテーマパークに行こうと提案した。
「バンジージャンプ、飛んでみたくてさ」
「……えっ、なにそれ」
妻は絶叫系が苦手なので、「あなた正気?」と目が言っていた。だけど、反対もせず一緒に来てくれた。
感染症の名残もあって人の少ない園内、ひと通りアトラクションを楽しんだ後、俺はいよいよバンジージャンプへ向かった。
「行ってらっしゃい。私はカメラ係」
妻はスマートフォンを構えて、俺を見守った。
長い階段を登りながら、心臓の鼓動が早まっていく。それは、不安かワクワクか。 足元の地面が遠ざかり、はるか下に川が見えた。
ジャンプ台のてっぺんにたどり着くと、俺は自分でも驚くくらい、なんのためらいもなく飛んだ。階段の最後の段差を、ぽんと飛び降りるくらいのノリで。
耳元を吹き上げる風の音と、身体が落下していく感覚。
「あ、死んだわ」と思った。
でも、その次の瞬間、身体がビヨンと引き上げられた。
「あ、生きてた」
初めて飛んだバンジージャンプは、あっけなく終わった。
人生って、案外そんなもんかもしれない。飛ぶ前は怖くても、飛ぶと大したことがないんだよな。
「こんなにあっさり飛ぶ人、いませんよ」って係員には言われた。
地上に戻ってくると、妻が待っていて「おかえり」と言ってくれた。
「どうだった?」
「たいしたことなかった」
「あなたらしいね」
妻が呆れたように笑っていた。
*
マルシェができないなら、オンラインショップにしよう。俺は軌道修正して、オンライン直売所を開設した。
初めはなかなか売上が上がらなかったが、地元の新聞に取り上げられたり、知り合いが拡散してくれたりして、「工芸品なのに、手軽で使いやすくてかわいい」と評判が広まっていき、少しずつ売れるようになってきた。
窯元の器は、東京のカフェに置かれた。染物のストールは、ギフトに選ばれた。
収入が増えたと、職人さんにも喜ばれた。
事業は少しずつ軌道に乗っていった。
「最近、なんか楽しそうね」
ある日、彼女にそう言われた。
俺は真面目な顔で答えた。
「うん、まあ。君といるから、だね」
真剣に言ったつもりだったのに、妻はふふっと笑って、「調子のいいこと」 とだけ返してきた。
バンジージャンプのように飛び込んだこの人生。やる前は怖くても、やってみたら意外となんとかなって。その先に、思いがけず楽しい日常が続いている。
案外、悪くない。
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