第十一話 神様になれなかった日
綾子は走っていた。夜の街を、鼻くそ屋に向かって。ただ、それは誰かのためではなく、今にも崩れてしまいそうな自分自身を繋ぎ止めるためだった。
——私、どうしたいんだろう。
鈴木を許したいのか、責めたいのか。それとも、ただ会って確かめたいだけなのか。答えはまだ出ていなかった。
心の中に巣食う感情は、怒りよりも悲しみに近かった。裏切られた、とも思う。でも、期待していた自分がいたことも事実だった。友達として長く付き合いすぎたせいで、その境界線を一歩踏み越えるタイミングを見失っていた二人。
けれど、綾子は信じていた。あの日、自分の家に誘ったとき、ようやくそれが叶う気がしていた。
(なのに……)
彼は私の顔を見なかった。目も合わせず、ただひたすら尻に向かった。
(私は、モノじゃないのに)
鈴木の手が触れた場所は、綾子にとってずっと封印していた領域だった。人に見せることも、話すこともなかった“存在”。それが、まるで“真実”かのように暴かれたあの瞬間、綾子は自分の「人としての尊厳」が引き裂かれたように感じた。
羞恥と嫌悪が、身体の内側から込み上げてくる。けれど、心の奥に残るのは、どうしようもない矛盾だった。
(……私だって、うんこはするのに)
その現実を認めることが、綾子にとっては自分の「特別さ」を放棄することのようにも思えた。
誰からも「可愛い」と言われ続けたこと。それがアイデンティティになっていた。
その“可愛さ”が、もし「うんこをしない存在」として成立していたのなら——鈴木にとって私は、一度排泄した時点で、もう“女神”じゃないのだろうか。
(じゃあ、私は何なの?)
女神として理想化され、偶像として崇められ、でもその偶像を壊した瞬間に、私はただの“排泄する生き物”に成り下がるの?
自分の存在が、「排泄するかしないか」というたった一つの軸で測られていることへの憤りと、悲しみと、空しさ。
でも同時に、それでも自分のことを“美しい”と思ってくれる誰かがいたことに、かすかな喜びもあった。
——ああ、私は何を守りたかったんだろう。
綾子は立ち止まった。息が切れていた。夜風が冷たい。けれど、それが少し気持ちよかった。
鼻くそ屋の看板が見える。
その先に、鈴木がいる。
心臓が強く鳴る。逃げ出したくなる気持ちと、確かめたいという衝動が交錯する。
綾子はそっと、店の扉を押した。
——その瞬間、椅子を振り上げた鈴木と、それを止めようとする加藤と柳瀬の姿が目に入った。
「……なにやってんのよ、あんたたち」
その声に、全員の動きが止まった。
そして、静寂の中、綾子は思った。
(私は、神様になれなかったんだ)
でも、それでもいい。
そう思える自分が、ほんの少しだけ好きになれた気がした。
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