第九話 うんこの罪

 鼻くそ屋の前で柳瀬と鉢合わせた鈴木は、少しばかり気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。


「よお、鈴木じゃないか。早いな」


「少し早く来て、一人で飲もうかと思ってさ」


「なんだ、俺が来て台無しみたいな言い方だな。加藤から聞いたぜ、ノイローゼなんだって?」


「ああ……まあ、ちょっとな」


「どうせ綾子絡みだろ。とにかく中で飲みながら話そう」


 二人は鼻くそ屋に入り、カウンター席に腰を下ろす。ビールと適当な鼻くそ盛り合わせを注文して、軽く乾杯した。


「で、綾子と何があったんだ?」


 鈴木は少し間をおいてから、低い声で答えた。

「綾子が……うんこをした」


「は?」


「正確に言うと、尻から“うんこらしきもの”が出てきた」


「……で?」


「それを……俺が食べた」


 沈黙。

 柳瀬の表情が固まる。ジョークだと信じたい気持ちと、鈴木の真剣な目が矛盾していた。


「……可愛い女の子は、うんこをしないんじゃなかったのか?」


「俺の中ではそうだ。でも、あれは……何かが違ったんだ」


 そこへ、加藤が合流した。相変わらずのニヤニヤ顔。


「なになに? うんこの話?」


 鈴木が眉をひそめる。


「ケツの穴から出たら、そりゃうんこだろ。なぁ?」


「おいおい、そんな単純な話じゃないんだよ」


 柳瀬が割って入る。

「この場合、定義の問題だな。加藤は“肛門から出たもの=うんこ”と言ってる。鈴木、お前の考える“うんこ”とは何なんだ?」


「一般論では、それでいい。でも“可愛い女の子”に限って言えば、その定義は通用しない」


「ずるいな、それ。じゃあ、可愛い女の子のケツから出るのは何だって言うんだ?」


 柳瀬は一瞬考えたあと、冷静な口調で語り出す。


「そもそも、うんことは——食物が胃で消化され、糜粥(びじゅく)となり、胆汁によって着色され、小腸で吸収され、大腸で水分が抜かれ、腸壁の細胞や腸内細菌とともに固形化し、最終的に肛門から排出される“排泄物”だ」


 加藤が無邪気にうなずく。


「なるほど、それがうんこの定義ってわけだ。じゃあやっぱり、綾子のそれはうんこでいいんじゃね?」


 だが、鈴木は首を横に振った。


「いや……違う。俺にとって、それは“罪”だった」


「は?」


「可愛い女の子がうんこをする。それは存在そのものへの裏切りだ。否、世界に対する背信。罪だ。絶対悪だ」


 一同、言葉を失った。


 加藤がようやく絞り出す。

「……なんで、うんこしただけでそんな大げさな話になるんだよ」


 柳瀬が腕を組み、やや呆れたように続ける。


「……まぁ仮にだ、うんこが“罪”だとして。その場合、罪とは何をもって成立する? 意志か? 結果か? 社会的合意か?」


「仮定じゃない、これは“事実”なんだよ!」


 鈴木は立ち上がり、近くにあった椅子を手に取る。

 明らかに興奮していた。


 ——そのころ、綾子はひとり、暗い部屋の中で天井を見つめていた。


 静かな夜。沈黙と羞恥の余韻。


 彼女の目に、ひと筋の涙が浮かんでいた。


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