第五話 匂いに溺れる
鈴木と綾子は夜の街を歩いていた。ただ、あてもなく。
綾子は「行きつけのバーがある」と言った鈴木の言葉を疑っていない様子だったが、鈴木は心の中で焦っていた。そんな場所、あるはずがないのだ。
「だんだん寂れてきたわね」
綾子がふと口を開く。
「あ、あの……この辺だったと思うんだけど……」
しどろもどろに誤魔化そうとする鈴木に、綾子は笑いながら言った。
「行きつけのバーなんてないんでしょう?」
図星だった。
「ご、ごめん。ちょっとカッコつけたくて、つい……」
「そんなことだろうと思ったわ。鈴木がバーに通ってるなんて、想像できないもの」
どんな印象なのか、少しショックを受けながらも、綾子の表情はやわらかい。
「ねえ、今夜……うちに来る?」
その一言で、鈴木の思考は停止した。
意味がわからない。いや、わかる。でも理解できない。
しかし本能だけは、明確に歓喜していた。
「あ、あううう、行っていいの……?」
「ふふふ、あうううって何よ? そういうところ、嫌いじゃないわ」
その笑顔が、鈴木にとっては救済だった。
綾子の家はこの近くにある。一人暮らしであることは事前に調査済み。彼は何度もこのエリアを散歩と称して徘徊していた。
「確か、こっちだよね? 地図読むの得意なんだ」
「ふーん、意外ね。こんなとこに用事あるような人じゃないのに」
「地図の研究をしてて……」
意味不明な言い訳にも、綾子は特に追及せずうなずいた。
そして到着。
綾子の住む集合住宅は、見た目こそ質素だが清潔感があった。
(ここが、あの綾子の生活空間……!)
鈴木の緊張は最高潮に達していた。
玄関には綺麗に整列した靴の列。今日履いていたスニーカーもそこにあった。
(……嗅ぎたい)
それが鈴木の正直な感情だった。
この靴には、今日一日綾子が宿していた何かが染み込んでいる。
鈴木はわざと転んだ。スニーカーのつま先に、鼻が押し付けられるように。
「危ない、大丈夫? 怪我してない?」
「だ、大丈夫……」
内心では深呼吸していた。ゴムの匂いしか感じられなかったが、それでも至福だった。
「もう、ドジなんだから」
鈴木は背徳感に包まれながら、玄関を上がった。
「飲み直そうか。お酒、いろいろあるわよ。何がいい?」
「ビ、ビールで」
知っているお酒の名前を絞り出すのが精一杯だった。
「私もビールにするわ。ビールって利尿作用あるから、あとでトイレ近くなっちゃうかもね」
その言葉に、鈴木の中でまた新たな妄想が蠢いた。
「遠慮なく使ってね。玄関の横にあるから」
(……そのトイレ、本当に使われたことがあるのか?)
鈴木の思考は、すでに現実を離れはじめていた。
二人はテレビをつけ、何気ないドラマを眺めながらグラスを傾ける。
「ねえ鈴木、さっきなんで転んだの?」
「え、いや……ちょっと滑って」
「ふーん。まあいいけど」
綾子は、何かを察したような笑みを浮かべた。
「ビール、美味しいね」
「うん。すごく美味しい……けど、おしっこが近くなりそう」
その冗談めいたやりとりすら、鈴木にとっては極上の儀式だった。
綾子の家にあるトイレ。果たしてそれは本当に“使われる”のか。
彼はその真相を確かめるために、静かに立ち上がった。
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