第1章『ビスケットの扉をひらくとき』 第1話『はじめまして、甘い森』

まよい森――。

地図には描かれていない森。誰もが一度は通りすぎるけれど、忘れてしまう森。

けれど、心がちょっぴり疲れたとき、人は無意識にここへ足を向けてしまうという。


そこにひっそりと立つ、ひとつの家。

屋根はチョコレート、壁はビスケット。窓枠にはグミの装飾、煙突からはバニラの香りが白く揺れている。

鳥たちのさえずりはキャラメルのメロディ、木々のざわめきはホイップクリームの泡立つ音に似ていた。


“不思議なお菓子の家”

誰が建てたのか、いつからあるのか、誰も知らない。


その家の中で、猫耳の女の子・美奈は、長いしっぽをゆらりと揺らしながら、オーブンの前に立っていた。


「よし……あと五分で焼きあがるよ」

彼女の声は、ふわっと溶けるマシュマロのようにやさしい。


テーブルの上には、絵本に出てくるようなカップケーキやカラフルなマカロンが並んでいる。

そのどれもが、まるで心の奥のなにかを思い出させてくれるような、不思議な輝きを放っていた。


と、そのとき。


カラン……カラン……カラン……。


風に揺れたドアの鈴が鳴る。


「ん?……あれ?」

美奈が耳をぴくりと立てる。

「お客さんかな? でも、いつもより――変な匂いがする……」


そっと扉を開けると、そこには倒れている一人の少年。

髪はくすんだ灰色で、服も泥にまみれていた。だけど、顔立ちはどこか品があり、眉間には不安げな皺が寄っている。


「……ねぇ、翔兜ー! 変なのが倒れてるーっ!」


奥の部屋からひょっこり顔を出したのは、うさ耳の少年――翔兜。

白銀の髪に、金色の瞳。感情を隠すような表情だけど、目は鋭く、何かを見透かしているような冷静さを持っていた。


「また迷子か? 今日はケーキ焼いてる途中なのに……」

「そんなこと言わずに、見てあげようよ。ね?」

「……ま、いいけど」


翔兜が少年の肩を抱えて家の中へ引きずるように入れる。

彼の手は一瞬、少年の首元に触れたとき、小さく震えた。


(……魔力の痕跡? まさか、ただの人間じゃないのか?)


「ねぇ、君……」

美奈がタオルで少年の顔を拭いながら、ゆっくりと声をかけた。

「名前、言える?」


「……名前……」

少年はかすれた声でつぶやいた。

「わからない……おれ……なにも思い出せない……」


翔兜がカップを棚から取って、そっと手のひらで温めるように包むと、

空中からほんのり甘い香りが立ち昇った。


「――飲めるか? 甘さは控えめにしてある」

翔兜は無言の少年の前にそっとカップを差し出す。


少年はおそるおそるそのカップを受け取り、唇を近づける。

ひとくち、ふたくち……そのたびに頬のこわばりが少しずつ解けていく。


「……あったかい……やさしい味……」

かすれた声が、カップの湯気の奥から、ぽつりと漏れた。


翔兜は黙って、それを見つめていた。

けれど、その金の瞳には、ほんの少しだけ、安堵の光が灯っていた。


美奈は翔兜をちらりと見て、微笑む。

「ねぇ、翔兜。お茶の葉はどんなのを使ったの?」


翔兜は軽く肩をすくめながら、無駄に背筋を伸ばす。

「……君の好きな“バニラロイヤル”だよ。甘さとほろ苦さのバランスがちょうどいいんだ」


「やっぱり! ほんのりバニラが香るのが、いいんだよね」

美奈は嬉しそうに頷きながら、少年に向かって話しかけた。

「それじゃ、ゆっくり休んでね。美味しいお菓子もあるから、元気が出るはずよ」


少年はその言葉に、少しだけ頬をゆるめた。

「……ありがとう」

やっとのことで、微かな微笑みが浮かんだ。


翔兜が冷静に言う。

「それで、お前、どうしてここに来たんだ?」


少年はまた少し黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「……気がついたら、森の中にいたんだ……。でも、なんでここにいるのかはわからない」


「ふーん。迷子か」

翔兜は立ち上がり、机の上にあったカトラリーを片付けながらつぶやく。


美奈は少年に向かって微笑みかけると、静かに言った。

「君の記憶を取り戻す方法、あるかもしれないわよ。もしよければ、私たちが手伝ってあげる」


翔兜が少し目を細めて、美奈を見た。

「またお前、あのレシピを使うつもりか?」


美奈はにっこりと微笑んだ。

「うん、だって、あれは“心のしっぽ”が必要なレシピだから。きっと彼に必要よ」


翔兜はしばらく黙っていたが、やがてため息をつくと、静かに答えた。

「……わかったよ。でも、覚悟しとけよ、あれを作るのは簡単じゃないからな」


美奈はうれしそうに跳ねるように立ち上がった。

「うん、ありがとう! じゃあ、さっそく準備しよう!」


翔兜はしばらく考え込んだ後、静かに呟いた。

「本当にこれでいいのか……」

けれど、ふたりの言葉に乗せられたように、家の中に甘くあたたかい香りが立ちこめていた。


少年はミルクティーをもう一口飲んで、心が少しずつほぐれていくのを感じた。

それと同時に、彼の胸の中で、忘れていた記憶の断片が静かに目を覚ますような気がした――。

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