託された筆
地下神殿は崩れ落ちた柱の残骸や瓦礫が散乱し、辺りは久遠が放つ圧倒的な霊気の嵐で激しく揺れ動いている。その力は空気を濃厚に圧縮し、空間そのものが張り詰め、まるで手で掬い取れそうなほど濃密に感じられた。
久遠はなおも冷たい微笑を浮かべ、すべてを終わらせるように霊気の攻撃を繰り返している。対する瑠宇や蒼龍は激しく消耗し、探索隊員たちも次々と膝をつき、倒れていた。もはや反撃はおろか、防ぐことさえままならない。
そんな絶望的な状況の中心に、春風はただぼんやりと目を開けていた。
符の反動による苦痛と自己否定の闇に飲み込まれかけながらも、彼は朦朧とした意識の中で、自分を守るため必死に戦い続ける兄弟子と師匠の姿を見つめていた。
その瞳には、徐々に、微かな意志の光が蘇り始めていた。
視界の隅に映る蒼龍と瑠宇の必死な姿――その強い眼差しが、春風の心の底に隠れていた何かを、再び呼び覚まそうとしていた。
春風の手は無意識に傍らの筆を強く握りしめる。その指先は震えていたが、徐々に確かな力が込められ、迷いの霧を振り払うように、ゆっくりと持ち上げられた。
春風は震える膝を押し上げ、ゆっくりと立ち上がった。その姿を見て瑠宇は目を見開き、咄嗟に手を差し伸べようとしたが、春風は微かに首を振ってそれを制した。
「春風、無理をするな。今はまだ――」
瑠宇の声は途中で途切れた。春風の瞳に宿る静かな決意を感じ取ったからだ。彼の目は迷いを脱ぎ捨て、今はただ真っ直ぐに装置と久遠を見据えている。
「瑠宇兄さん、師匠、お願いがあります。今、この場には霊気が溢れています……まるで、筆に直接掬えるほどに」
春風の声はまだ震えていたが、芯は確かに通っていた。その言葉を聞いて蒼龍は目を細め、意図を察して静かに頷いた。
「春風よ、まさか……霊気を直接掬い、空間に符を書くつもりか?」
春風はゆっくりと頷いた。
「はい、師匠。僕一人では無理です。久遠さんを止めるには、皆の力が必要なんです。瑠宇兄さん、師匠、僕と一緒に符を書いてください」
久遠はその言葉を耳にすると、顔を険しく歪ませ、嘲るような笑みを浮かべて掌を掲げた。
「愚かな真似を。いまさら符を書いたところで、この状況を変えることなどできるものか!」
その言葉と共に久遠は再び霊気の塊を放つ。凄まじい霊気が地下神殿を貫き、地面が激しく揺れた。しかし蒼龍は素早く符を掲げてそれを受け止め、何とか耐えきった。だが、衝撃に身体は激しく震えている。瑠宇もまた蒼龍に続き、符を構えて久遠へと立ち向かう。探索隊員たちも再び奮い立ち、懸命に霊気を抑え込み、久遠の注意を引きつけた。
春風は意識を集中させ、指先の筆をゆっくりと空中に掲げた。空間に漂う濃密な霊気は、まるで粘性を持つ液体のように筆先に絡まりつき、指先に伝わる感触が生々しく、鋭く伝わる。
「瑠宇兄さん、師匠、僕が中心の鏡返しの符を書きます。それでこの霊気をすべて久遠さんに返します! お二人は符の周囲を支える符文をお願いします」
蒼龍は深く頷き、静かに空間へと筆を走らせ始めた。その動きは洗練され、長年培った経験を物語っていた。瑠宇も懸命に符を書き、周囲に散らばる霊気を導きながら集中力を研ぎ澄ませる。
久遠はその動きを感じ取り、表情を歪めながら激しく符を振り下ろした。
「させぬ! 符術などという虚構をこれ以上広げることは許さん!」
久遠の放つ霊気が三人の周囲を襲い、地下神殿全体が再び震えた。探索隊員たちも必死に抵抗を続けるが、久遠の攻撃は激しく、その圧倒的な力の前に次々と膝を突いてしまう。
だが、春風はその攻撃の波に耐え、強靭な意志で符を書き続けた。霊気は筆先で絡み合い、濃密な霊気を纏いながら美しく輝いた。その瞬間、久遠が放った巨大な霊気の奔流が歪み、一瞬の隙が生まれる。
「今だ、書き切れ!」
蒼龍が声を張り上げる。瑠宇も符文を刻み続け、春風の放つ『鏡返し』を支えるように必死に霊気を注ぎ込んでいた。
しかし、久遠は怒りを込めて両手を掲げると、歪みを潰すようにさらなる霊気の猛攻を三人に向けて放った。
「これ以上、私を止めようなどと……!」
その激しい霊気が襲い掛かり、春風たちの描いた符文が大きく揺らぎ始める。その時だった、神谷が鋭い声で指示を飛ばした。
「黄昏通信の者たち、鎮潮柱を最大稼働させ、久遠の霊気を吸収しろ! 久遠にこれ以上、自由に霊気を操らせるな! 柱は使い捨てて構わん!」
黄昏通信の隊員たちは一斉に動き出し、地下神殿に設置した鎮潮柱の霊気吸収機構を再起動した。柱が低い唸りを上げて青白い光を放ち、久遠が放つ霊気を激しく吸い込み始める。
久遠は鋭く表情を歪め、その場に踏みとどまりながらも、さらなる霊気を放ち抵抗すると鎮潮柱の幾本かが霊気の圧に押し負け爆ぜる。
「愚かな……霊気の奔流を止められると思うな!」
しかし、鎮潮柱で緩んだ霊気の隙を見逃さず、佐久間が素早く幽鏡水晶を掲げ、神谷たち黄昏通信の鎮潮柱に協調するよう水晶を操作した。
「白菊重薬の者たちも急げ!幽鏡水晶で霊気の流れを減衰し、鎮潮柱の負荷を下げろ! 久遠を抑え込むぞ!」
両企業が力を合わせ、鎮潮柱と幽鏡水晶を連携させて霊気を抑え込み、減衰と吸収を繰り返し、久遠の霊気を食い止める。
「おのれ……企業のくせに、今さら協力するか!」
久遠が怒りをあらわに霊気を強めるが、両企業の統制された連携により、徐々にその力が封じ込められていく。
「久遠、符とは力の奪い合いではない。それを我々はようやく思い出したのだ」
佐久間もまた強く頷き、久遠に語りかける。
「あなたが味わった痛みや怒りは分からない。しかし、それを世界に向けるのは間違っている! 私たちはその怒りを、悲しみを受け止める!」
春風はそのやりとりを見つめながら、胸に熱いものがこみ上げてきた。自分が示した符の力を信じ、敵対していたはずの企業の面々が手を取り合い、久遠を食い止めようとしている――その姿に強く勇気づけられていた。
春風は力を振り絞り、さらに空間に符文を刻み続ける。瑠宇と蒼龍もその決意に応え、符術の連鎖を広げていった。
久遠は霊気を抑え込まれ、ついに膝をつく。
「こんなはずは……符が、私の符が……!」
春風は静かな表情で久遠を見つめ、その苦しみを受け止めようとしていた。
「久遠さん、符術は破滅をもたらす力じゃない。人と人を繋ぎ、支え合うことだってできる……それを、あなたにも見てほしい!」
久遠は初めてその言葉に動きを止め、呆然と周囲を見回した。白菊重薬と黄昏通信の隊員たちが、敵対心を捨てて霊気を調和させ、ひとつの目的に向かっている光景を。
神谷が静かに久遠に告げた。
「あなたの孤独と絶望は、私たちにも責任がある。だからこそ、ここで終わらせよう」
「久遠殿、あなたが失ったものを取り戻すことはできないかもしれません。それでも、この痛みを繰り返さないために、ここで止まりましょう」
佐久間もまた、悲しげな目で久遠を見つめた。
久遠の表情に、一瞬だけ迷いが浮かぶ。その隙を逃さず、春風は最後の符文を書き上げ、その完成を告げるように強く叫んだ。
「これが僕の信じる符――人の心を繋ぎ、調和を生み出す力! 久遠さん、あなたにも届いてください!」
その言葉に久遠は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに激しい怒りの霊気を再び解き放つ。瑠宇と蒼龍の符文はすでに書きあがり、春風の符文と接続するだけとなった。
「春風、符術の真実を今こそ示せ。その筆に託した希望を見せるのだ!」
春風は最後の一画を力強く空中に刻み込み、完成した符文を見上げた。3人の書き上げた符文は連結され符文に込められた霊気の内圧で駆動を始める。
空間に輝く鏡返しの符は、濃密な霊気と共鳴し、美しく輝いていた。
「符術は人を救うためにある! この符はあなたの怒りも悲しみも受け止め、あなた自身に返す! 全反射界創造――、鏡面領域・二式・鏡返し!」
春風の叫びと同時に、空間に浮かぶ完成された『鏡返し』の符文が鮮やかに輝き出し、久遠の放つ霊気を完全に捉え、そのまま彼自身へと穏やかに返していった。
「これは……!」
久遠の顔に驚愕が走る。自らの放った強力な霊気が自分自身へと跳ね返り、その衝撃で彼の身体は激しく揺れ動いた。
瑠宇と蒼龍は春風の傍らに立ち、作り上げた符を支えるように力を注ぎ続ける。
「僕は符術の意味をもう一度信じます。久遠さん、あなたも本当は知っているはずだ……符術が何のために存在するのかを!」
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