第54話 君に、音が届くとき
ピックを弦に走らせた瞬間、空気が変わった。
ギターのコードがホールに響き、ドラムのビートが重なる。
菜月のキーボードが柔らかく包み込むように旋律を添え、凛音のベースがその土台を支える。
俺の声が、それらに乗って広がっていく。
──一曲目、「Midnight Skater」。
ライブの序盤を勢いづけるアップテンポのナンバーだ。
客席から自然と手拍子が起こる。
最初は控えめだった反応が、徐々に熱を帯びていく。
「最高だよ、奏!」
麻央のシャウトがドラムの後ろから飛んでくる。
テンポが速まる。熱が高まる。僕たちは今、間違いなく“ひとつの音楽”になっている。
二曲目、三曲目と続けて演奏し、いよいよ最後の曲へと移った。
ステージの照明が、ふわりと落ち着く。
スポットライトが僕にだけ当たる。
そして、ギター一本のアルペジオ。
俺がマイクに口を近づける。
「……最後に届けたい歌があります。これは、誰かひとりのための曲。他の誰でもない。君に届いてほしい——そんな想いで書きました」
客席が静まる。
イントロが鳴り始めた。
「君の耳に、僕の音が届くなら」。
この歌を作ったとき、俺はまだ自分の気持ちに名前をつけられなかった。
ただ、消えかけた音の向こうに、彼女の存在を感じていた。
あの屋上で、吹奏楽部室で、真夜中の公園で——
彼女がどんなふうに過ごしてきたのか、そのすべてを知ることはできない。
それでも、俺は今、歌っている。
「届いてほしい」と、願いながら。
陽葵は客席にいた。
顔を上げ、こちらを見ていた。
表情は穏やかで、でもどこか、切なげで。
彼女の唇が、歌詞に合わせて動いているのが見えた。
覚えてくれていたんだ、この歌を。
涙が、にじんだ。
それでも声を止めなかった。
ギターの音に乗せて、感情をぶつけた。
音が、言葉が、空間を震わせる。
——ラストサビ。
全員の楽器が一斉に鳴り、俺の声がその上に乗る。
彼女の名前は出てこない。
でも、歌詞のすべてが、彼女に向かっていた。
そして、最後の音が鳴り終わった。
静寂。
ほんの数秒の沈黙のあと——
大きな拍手が、ホールを包んだ。
歓声。手拍子。スタンディングオベーション。
けれど、俺が見ていたのは、ただひとり。
——陽葵が、微笑んでいた。
頬を濡らしながら、笑っていた。
音が、届いたんだ。
今この瞬間、たしかに。
ライブが終わると、拍手の余韻がしばらくホールに残った。
カーテンコールのあと、俺たちは軽音サークルとして最後の挨拶をし、ステージを後にした。
控え室の空気は高揚と汗のにおいに満ちていた。誰もが笑っていた。
でも、俺だけはすぐにギターを抱え直し、袖を抜けて客席へと向かった。
あのとき、スポットの光の向こうにいた彼女を、この手で確かめたくて。
ホールのロビーに出ると、そこにはすでに数人の観客が残っていて、感想を言い合っていた。
その中に、ひときわ静かに佇むひとりの姿があった。
白いカーディガンに、膝丈のスカート。
光を帯びたような栗色の髪と、柔らかい視線。
「……陽葵」
名前を呼ぶと、彼女は小さく笑った。
「奏、やっぱり……探してたの?」
「ああ。探してた。ずっと」
言葉にして初めて、自分の本音がわかった。
陽葵はしばらく僕の顔を見つめたあと、ふっと視線をそらした。
そして、ゆっくりと、こう言った。
「ねえ……あの歌、私のこと?」
「……うん。そうだよ」
ごまかすつもりはなかった。
もう、隠す理由もなかった。
「私ね、最初に聴いたとき、うまく意味が掴めなかったの。……でも今日、ちゃんと届いた気がした」
そう言って、彼女は自分の右耳をそっと撫でた。
「聴こえたんだよ、ちゃんと。……私のダメになった方の耳にも。……ね、不思議だね」
そう言う彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
俺はそっと、ギターを壁に立てかけて、彼女の前に立った。
「これからも、歌い続ける。君が、もし……聴いてくれるなら」
陽葵は笑った。
今まで見たどんな表情より、素直で、柔らかくて。
「うん。聴くよ。……だから、ちゃんと、届けてね。私に」
それは、誓いのような、告白のような、
でもどこまでも自然で、静かな約束だった。
俺は、うなずいた。
ここから、また始まる。
音楽と、日常と、彼女の俺の物語が。
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