第44話 透明な嫉妬
滝沢瑞希の目は、笑っていなかった。
「こんな時間に、音楽棟? しかもホルンって……ずいぶん楽しそうなことしてるじゃん、先輩」
言葉の端にあるのは、明らかな棘だった。
それが誰に向けられたものかは、わかっていた。
俺じゃない。陽葵に対してだ。
「……瑞希、なんでここに?」
俺は努めて穏やかに尋ねる。
瑞希はふいっと視線を逸らし、そっけなく答えた。
「今日、文化祭の練習でこっち使ってるって聞いてたから。ちょっと見にきただけ。……でも、へぇ。陽葵先輩って、ホルン、吹くんだ」
陽葵は黙っていた。
それでも背筋は真っ直ぐで、視線も逸らさなかった。
彼女なりの、無言の対抗だったのかもしれない。
「別に、悪いことしてるわけじゃないよ。俺たち、発表会に向けて一曲仕上げてるんだ」
俺がそう言うと、瑞希はさらに顔をしかめた。
「先輩、バンドは? 軽音サークルの方は? 最近、ぜんぜん練習来てないし。……みんな、気にしてますよ」
その「みんな」が誰を指しているのか、俺には曖昧だった。
だが、その中に瑞希自身が含まれていることは、間違いなかった。
「悪い。最近、ちょっと……他のことに集中してて」
「……へぇ、そうですか。じゃあ、サークルのことはもうどうでもいいってわけですね」
「そんなつもりじゃ——」
「……先輩さ、わかってるんですか? 陽葵先輩が、どんな目で見られてるか」
その瞬間、陽葵の表情がかすかに揺れた。
だが、彼女は何も言わなかった。ただ、黙って、堪えるように視線を落とす。
「うちのサークルでも、いろいろ言われてますよ。“またあの子か”って。問題ばっかり起こしてるって」
「やめろ、瑞希」
俺の声は、いつになく低くなっていた。
瑞希は一瞬たじろぐように視線を下げ、それでも負けじと口を開いた。
「……私だって、ずっと応援してきたのに」
——ああ、そうか。
俺はようやく、彼女の言いたいことの核心に気づく。
それは音楽じゃない。サークルでもない。
「応援」なんて、曖昧な言葉の奥にあるのは、ずっと押し込めてきた感情だった。
瑞希は、俺に好意を持っていた。
けれどそれは、言葉にはされなかった。ただ静かに、溢れそうになっていた。
「……瑞希。ごめん」
それが今の俺に言える、唯一の言葉だった。
瑞希はきゅっと唇を噛み締め、目を逸らす。
「……知ってます。ずっと前から。先輩が見てるのは、私じゃないってことくらい」
それだけ言って、彼女は踵を返した。
その足音は軽くて、でも確かに、何かを置いていったような音だった。
その沈黙の中で、陽葵がぽつりと呟いた。
「……ごめん、私のせいで」
「ちがう」
俺は即座に否定した。
「陽葵のせいじゃない。——誰のせいでもない」
そして俺たちは、しばらく黙って座っていた。
音のない練習室の中で、それでも心には何かが響いていた。
*
沈黙が続いた。
けれどその沈黙は、決して気まずいものではなかった。
むしろ、互いの心にそっと触れるような、やわらかな静けさだった。
陽葵が小さく息を吐く。
「……ねぇ」
「ん?」
「滝沢さんの気持ち、ちゃんとわかってた?」
俺は少しだけ考えてから、頷いた。
「なんとなくは。でも、あえて気づかないふりをしてた。……ずるいなって、自分でも思うよ」
陽葵はうつむいたまま、ぽつりとこぼす。
「それでも、あんなふうに言われて……正直、ちょっとだけ、嬉しかったかも」
「……嬉しい?」
陽葵は頬を赤らめ、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「誰かに……妬かれるくらい、大切に思ってもらえてるんだなって。——ほんの少しだけ、そんなふうに思ったの」
その言葉に、俺は少しだけ胸が締めつけられた。
彼女はきっと、ずっとひとりだったのだ。
誰かに羨ましがられることなんて、今までなかったのかもしれない。
「陽葵」
「……なに?」
「俺は、君が誰に何を言われたって、君を信じるよ」
そう言うと、陽葵の目が大きく見開かれた。
その表情はどこか幼くて、不安げで——でも、確かに少しずつ和らいでいった。
「ありがとう。……でも、私、やっぱり怖い」
小さな声だった。
でも、紛れもなく本音だった。
「音が……聞こえなくなるかもしれない。楽器が、吹けなくなるかもしれない。——もしそうなったら、私は、私じゃなくなっちゃう気がして」
俺は彼女の手を、そっと握った。
「そんなこと、ない」
陽葵が顔を上げる。
「たとえ君が楽器を吹けなくなっても、音が聞こえなくなっても。——君は君だよ」
その言葉に、陽葵はしばらく黙っていた。
そしてふいに、目尻をぬぐいながら微笑んだ。
「……それって、ずるい」
「え?」
「そんなふうに言われたら……期待しちゃうじゃん」
俺は返す言葉が見つからず、ただ少し笑った。
夜の音楽棟は、静かだった。
だけど確かに、二人の間には音があった。
心の奥で、交差する旋律が、静かに響いていた。
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