第34話 光に向かう音
その日から、陽葵は少しずつ、ホルンを吹く練習を始めた。
最初は音がまともに出ず、よくマウスピースに顔を埋めたまま黙り込んでいた。
でも、止めることはなかった。
「……耳じゃなくて、身体で吹くって、難しいね」
「それでも、やってみようと思えるのがすごいんだよ。陽葵は」
俺は、彼女の隣でギターを弾くことにしていた。
彼女が音を出す勇気を失わないように。
ひとりじゃないと、思ってもらえるように。
ある夜、彼女が突然つぶやいた。
「ねえ、奏……私、今のままで、また吹奏楽部に戻れるかな」
俺はギターを止め、言葉を探す。
「戻れるかどうか、っていうか……戻りたいのか?」
「……わかんない。でも、あの場所で、ちゃんと終わりにしたいって思ってる。今逃げたままじゃ、自分が許せないから」
その言葉に、俺は少し驚いた。
あの陽葵が、過去を正面から見ようとしてる。
「だったら、止めねぇよ。俺がついてる。……戻るその時まで、俺がそばにいる」
「……ありがとう」
しばらく沈黙が続き、彼女がポツリと続けた。
「でも、怖い。私、ほんとに……自信なくて。怖くて、毎日夢で怒鳴られるの。部活の先輩とか、母とか、妹とか……」
「だったら、その夢の中に俺も出るようにするよ」
「……は?」
「夢の中で陽葵が泣いてたら、俺がギター持って迎えに行く。先輩にもお母さんにも妹にも、ぶつけてやる。音で」
陽葵は、一瞬ぽかんとしたあと、ぷっと吹き出して笑った。
「それ、ずるいでしょ……」
「いいだろ。夢なんだから、なんでもありだよ」
「じゃあ、お願い。夢の中でも、ギター弾いて」
そう言って、陽葵は俺の肩に寄りかかってきた。
体重は軽くて、だけどその温度が、今の彼女の精一杯なんだと思った。
——その夜、俺はいつもより長く、弦を鳴らしていた。
ホルンの音がいつか、また陽葵の中に戻ってくるように。
その願いを込めて。
*
週明けの午後。
講義帰り、俺は構内のスタバでアイスコーヒーを受け取り、席を探していた。
「あれ、奏じゃん?」
聞き覚えのある声に、振り向く。
そこには、明るいオレンジ色の髪を揺らして笑う女子——南雲さつきがいた。
「……さつき?」
「おー、やっぱ本人だ。久しぶり! 何年ぶり? 三年? もっと?」
「高校の卒業式ぶり……かな。まさか、明晴にいたなんて」
「私こそ。奏がいるなんて聞いてないし!」
南雲さつき。高校時代、吹奏楽部の打楽器担当。
陽葵と同じように、俺と“あまり話さなかった人間”のひとり。
ただ、その明るさと社交性で、部のムードメーカーだった。
「今、どこの学部?」
「教育。小学校の先生志望~」
「らしいな」
「えーなにそれ。馬鹿にしてる?」
「してないよ。ただ、向いてると思っただけ」
彼女は席を取っていたようで、「座っていきなよ」と言われ、
自然な流れで向かい合ってコーヒーを啜る。
「ねえ、聞いてもいい? 奏、陽葵とまだ繋がってる?」
「……うん。まあ」
「そっか……よかった。ほんと、よかった」
言いながら、彼女の表情に、ほんの一瞬の翳りが見えた。
「……どうした?」
「ううん、何でもない。……でも、心配してたんだ。陽葵。高校卒業してから、連絡途絶えちゃって。私、ずっと気にしてて」
彼女はカップを両手で包みながら言った。
「陽葵、すごく繊細で、でも強がりでしょ? 周りに合わせるのも上手じゃなかったし、時々、ふっと消えそうな目をしてたから」
「……そうだな」
彼女は俺の目を見た。
「奏、今、陽葵のそばにいるんだよね? 本当に大事にしてあげてね」
その言葉は、強いようで、どこか祈るような響きを持っていた。
俺は頷いた。
「わかってる。……陽葵のこと、支えるって決めたから」
「うん。……それ、聞けてよかった」
その後、さつきと連絡先を交換した。
別れ際、彼女は明るく笑った。
「私も何かできることがあったら言って! 陽葵にはいっぱい助けられたから、今度は私の番!」
あの笑顔は、高校時代と変わらない。
でも、彼女が放つ“強さ”のようなものは、
今の陽葵とはまた違った形の痛みを抱えているようにも見えた。
新しい再会。
そして、彼女の中にある“何か”の予感。
物語は、またひとつ広がり始めていた。
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