第17話 優しさの温度、無音の嫉妬
「最近、あんた楽しそうね」
そんな言葉を投げかけてきたのは、陽葵だった。
いつもの音楽室。
窓から差し込む午後の光に、ホルンの金属が鈍く反射している。
陽葵は楽器の手入れをするふりをしながら、俺をじっと見ていた。
その視線は、いつになく刺さるようで、少しだけ冷たかった。
「別に、楽しくなんかないけど」
「そう? じゃあ、天音ちゃんとばっかり話してるのは、なんで?」
唐突に名前が出てきた。
俺は、心のどこかがピクリと反応するのを感じた。
「……詞をつけてくれてて、ちょっとやりとりしてただけだよ」
「ふーん。じゃあ、“天音”って下の名前で呼ぶのも、その延長?」
俺は、一瞬返事に詰まった。
陽葵はホルンのマウスピースを磨きながら、無表情のまま続ける。
「別にいいけど。あんたが誰と仲良くしようが、私には関係ないし」
(それが本音か?)
言葉とは裏腹に、彼女の指先は微かに震えていた。
何度も拭いたマウスピースが、これ以上ないほど輝いている。
俺は深呼吸して、静かに言った。
「天音の詞、良かったんだ。心に届いた。
……でも、あの音楽室で陽葵と演奏した時のことは、もっと忘れてないよ」
その一言に、彼女の指がぴたりと止まる。
「……ばか」
ぼそっとこぼれた声は、たしかに震えていた。
怒りとも照れとも違う、名前のつかない感情の揺れ。
陽葵は、しばらく無言のままだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「私さ、ちょっとずつだけど、耳の調子戻ってきてるの。医者にも言われた。
でもね、あんたと演奏したときの“あの音”は、今でも一番きれいに聴こえるの」
そう言って、彼女は目を伏せた。
「……あんたが、他の子と音を交わすたびに、
私だけが、また聴こえなくなる気がするんだ」
静かに、言葉のナイフが胸に刺さった。
彼女のこの不器用な嫉妬は、声にならないほど真っ直ぐで、
俺にはどうしようもなく重たかった。
「陽葵——」
名前を呼ぼうとした瞬間、彼女は首を振って遮った。
「もういい。今日は帰る」
そう言い残して、陽葵はホルンケースを肩にかけ、音楽室を出ていった。
残された俺は、ほんの数分前の“優しさ”と“痛み”の温度差に、
何も言えずに立ち尽くすことしかできなかった。
*
音楽室を出たあと、陽葵からの連絡はなかった。
LINEも既読がつかない。電話も出ない。
大学にも来ていないようだった。
(……また、ひとりで抱え込んでる)
それが、陽葵という人間だった。
昔から、誰かに甘えるのが下手で、
弱音を吐くより先に、無理にでも笑ってしまう。
俺は、大学の帰り道で駅の改札を抜けたあと、陽葵の家の方向へ足を向けていた。
やるべきことは分かっていた。
こういうとき、放っておくのが一番悪手だということも。
陽葵の家は、俺が昔部活の帰りに何度か送っていった場所の近くにある。
その頃は、ただの部活仲間だった。
けれど今は、もう違う。
夜の住宅街。灯りの少ない坂道。
雨上がりの匂いが、鼻をかすめる。
彼女の家の前に着くと、ドアの前で数秒だけ深呼吸して、インターホンを押した。
……返事は、ない。
けれど、ポストの下に揃えられた靴の形が、彼女のものだと分かった。
「陽葵。……俺だ」
しばらく沈黙が続いたあと、扉の向こうから、かすかに鍵を外す音がした。
そして、ゆっくりとドアが開いた。
「……なにしに来たの」
声はかすれていた。
いつもの気丈な雰囲気はどこにもなく、目元は泣き腫らしたように赤い。
「顔、見に来ただけ。あと、言いたいことがあって」
陽葵はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいて玄関を開けてくれた。
彼女の部屋は、驚くほど静かだった。
まるで音がすべて消されているような——ノイズのない孤独。
「何も言わなくていい。今日は、ただここにいさせて」
俺はそう言って、陽葵のそばの床に座った。
彼女は黙って隣に腰を下ろし、少しだけ身体を俺のほうに寄せた。
「……あんたが他の子に優しくするの、嫌だった」
ぽつりと、そんな言葉が落ちた。
「でも、止められない。だって、天音ちゃんは優しいし、詞だって素敵だったし」
陽葵の手が、小さく震えていた。
「私、耳が聴こえなくなっても、あんたの音だけは忘れられないの。
それが苦しくて、嬉しくて……でも、どうしたらいいか分からなくて」
俺はその言葉の一つ一つを、噛みしめるように受け取った。
そして、そっと彼女の手に触れた。
「じゃあ、忘れなくていいよ」
陽葵が目を見開いた。
「俺の音が、陽葵に残ってくれてるなら、こんなに嬉しいことはない」
「……ばか」
また、その言葉。
でも今の“ばか”は、少しだけ優しかった。
「ただ、忘れないで。俺は、陽葵が無理して笑ってるの、すぐ分かるから。
ちゃんと泣いてもいい。怒っても、甘えてもいい。
俺は、そういう陽葵のほうが、好きだから」
陽葵は、一瞬だけ目を伏せたあと、小さく、頷いた。
その夜、言葉は少なかったけれど、心が静かに近づいていく音が聴こえた気がした。
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