第12話 リハーサルとノイズと、違和感と

陽葵が家に帰ってから二日が経った。


俺はと言えば、今日も私立明晴大学の音楽棟地下、軽音サークルのスタジオにいた。

週末に控えた定例ライブへ向けたリハーサル――のはずだったが、正直、集中できていなかった。


 


「ちょっと、テンポ速くない?」


ドラムの藤瀬が不満げにスティックを回す。


 


「ごめん。もう一回、最初から」


俺は謝りながら、ギターのコードを見直す。けれど、指先が妙に重たく感じた。

たぶん、頭のどこかが、まだ“彼女”のことで占められていた。


 


陽葵の言葉。

彼女のあの、少し寂しそうな笑顔。


——私の音を、もう一度あなたに聴いてほしい。

それが、彼女なりの“答え”だった。


 


「……なあ八坂、最近ちょっと変じゃない?」


ふいに、ベースの陽翔が口を開いた。


「……そっか?」


「そっか?じゃないよ。いつものお前なら、こんなミスしないだろ」


 


藤瀬も、スネアをぽん、と叩いてうなずく。


「何かあった? 女の子関係とか」


「……まあ、ちょっとな」


 


変に隠す気はなかったが、全てを話すわけにもいかない。

俺は曖昧に答える。それで、ふたりは察したようだった。


 


「そっか。……ま、無理すんなよ。俺ら、別に完璧な演奏求めてないし」


藤瀬の言葉に救われる。

でも、それでも、演奏に手を抜くわけにはいかなかった。


 


「本番、聴きに来る人がいるんだ。……その人の前で、ちゃんと弾きたい」


 


そう言った俺に、陽翔がふっと笑う。


「そりゃ気合入るな。じゃあ、やるか。もう一回」


 


リハーサルが再開された。

今度は不思議と、指がすらすらと動いた。たぶん、頭が整理されたからだろう。


 


──そして、リハーサル後。


機材を片づけていると、一人の少女がスタジオの扉をノックした。


 


「あ、あの……こんにちは、です……」


 


入ってきたのは、小柄な一年生。

肩までの黒髪、丸メガネ。どこか緊張した面持ちで俺たちを見つめていた。


 


「どうしたの?」


「えっと……軽音サークルに興味があって、その……見学を……」


 


「あ、ちょうどよかったじゃん。なあ、八坂」


陽翔がにやりと笑う。

けれど、俺は彼女を見て、何か小さな違和感を覚えた。


 


その理由は、彼女のカバンの端から覗いた“リードケース”だった。

サックスかクラリネット。つまり、彼女は……


 


「……吹奏楽部、だった?」


「えっ……? あ……はい……えっと、退部してきました。ちょっと、いろいろあって……」


 


ああ、なんだろうこの感覚。

俺は静かにうなずきながら、思った。


——また、“音”の問題を抱えた人間が、ここに流れ着いてきたんだな、と。


* * *


彼女の名前は、橘由香たちばなゆか

私立明晴大学・文学部の一年生。楽器はクラリネット。

吹奏楽部には入学と同時に入ったが、先月末に退部したという。


 


「その……本当は、クラリネット、すごく好きなんです。

 でも、部活にいると、だんだん“嫌い”になりそうで……」


 


そう言って、小さな声で笑う由香の表情には、どこか“陽葵”と似た影が差していた。

——あの頃の彼女を思い出す。


 


「部内の雰囲気、合わなかった?」


「……はい。先輩たちの指導が、ちょっと……厳しくて。

 でも、“結果出してから言え”って、何も言えなくて……」


 


そう話す彼女は、声を震わせながらも、どこかで「諦めたくない」という気持ちを隠していた。

だからこそ、軽音に来たんだろう。


——“違う音楽”を知りたくて。


 


「じゃあ、ちょっとだけ聴かせてもらっていい? 君の音」


 


俺がそう言うと、由香は少し驚いたような顔をして、それでもこくりとうなずいた。

彼女は丁寧にケースを開け、クラリネットを組み立てていく。

その手つきは慣れていて、そしてどこか、儀式のようでもあった。


 


スタジオに静けさが満ちる。


 


そして、最初の一音。


 


……まっすぐで、柔らかくて、少しだけ泣きそうな音だった。


 


「……すごいじゃん」


陽翔がぽつりと呟く。


 


「……ありが、とう、ございます……」


由香は、少しだけ涙ぐんでいた。

自分の音を、肯定されたのが久しぶりだったのかもしれない。


 


「音は、嘘をつかないから」


俺がそう言うと、由香は驚いたような目で俺を見た。


 


「それ、吹奏楽部の顧問の先生も言ってました……。

 でも、その言葉が、一番苦しくもあったんです」


「……音に“心”が乗るなら、苦しさも全部、音に出るからね」


 


俺がそう続けると、由香はぽつりと呟いた。


 


「それでも……ちゃんと、音を鳴らしたいです。

 怖くても、間違ってても……ちゃんと、自分の音を」


 


ああ、まただ。

この子もまた、きっと“音”を求めてここに来た。


陽葵がかつてそうだったように。

そして——今もなお、そうであるように。


 


「じゃあ、ようこそ。明晴軽音へ」


俺が手を差し出すと、由香は戸惑いながらも、小さな手を重ねた。

その指先は、少しだけ震えていたけれど、ちゃんと温かかった。

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