君の耳に、僕の音が届くなら

りょあくん

第1話 春、また音は重なる

春は、いつも少しだけ空虚だ。


何かが始まるようで、何かが終わったようでもある。


僕――八坂奏やさかかなでは、大学の中庭で缶コーヒーを飲みながら、ただ人の流れを眺めていた。


「新歓」と印刷された立て看板がいくつも並び、スーツ姿の新入生たちが不安そうにキャンパスを歩いている。誰もが未来に怯え、誰もが過去に縋っている。


……まあ、僕もその一人だったんだけど。


「よっ、奏! また一人で春してるのかよ」


背後から、軽音サークルの同期――藤瀬遼ふじせりょうが声をかけてきた。


彼は陽キャ特有の軽さで、なぜか男女問わずに好かれるタイプの人間だ。今日も意味不明な英語のロゴが入ったTシャツを着ている。


「春するって何だよ」


「知らんけど、春してる感ある。こう、詩人っぽい顔でさ、缶コーヒー片手に人生を見つめてる風なやつ」


「放っといてくれ」


僕はため息をつきながら立ち上がった。軽音サークルの新歓に顔を出す予定があったからだ。


そう、今日が春の始まり。だけど僕にとって春は、何かが終わったまま動かない季節だった。


 


***


 


講義棟に向かう途中、ふとした拍子に目が止まった。


角を曲がった廊下の先、ホールの前で立ち止まっていたのは、見覚えのある後ろ姿だった。


栗色の髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばして楽器ケースを肩にかけている。


——間違いない。東雲陽葵しののめひまりだった。


高校の吹奏楽部で一緒だった子。ホルンの天才。気が強くて、よく先輩と衝突していた。


けれど僕とは、特別に仲が良かったわけでもない。ましてや、大学で再会するとは思っていなかった。


「……久しぶり」


思わず声をかけた自分に、少しだけ驚く。


陽葵はゆっくりと振り返った。


その瞬間、僕は気づくべきだったのかもしれない。彼女の表情が、どこか壊れかけたガラスみたいに見えたことに。


「……ああ。久しぶり、奏くん」


笑っていた。けど、あの頃の“強さ”は、声には宿っていなかった。


「まだホルン、やってるんだな」


「うん、まあね。そっちは?」


「軽音。ギターとボーカル。……吹奏楽は、もうやらないって決めた」


僕の言葉に、陽葵はわずかに目を伏せた。


「そっか……。奏くんは、ちゃんと前に進んでるんだね」


言葉の意味はわからなかった。けれどその時、春の風が吹いて、陽葵の髪が一瞬ふわりと揺れた。


そしてその髪の先が、彼女の右耳を隠していたことに、僕は気づいていなかった。


 


***


 


その日、僕は久しぶりにギターの弦を強く弾いた。


弾き語り配信を始めてから、こんなに音に感情を乗せたことはなかったかもしれない。


春が始まる。何かが動き出す。


それは、かつての後悔を掘り起こすような音だった。


陽葵と別れたあと、僕は少しだけ足を止めて空を見上げていた。


春の空は、いつも柔らかい色をしている。

だけど今日の空は、どこか霞んで見えた。 


……彼女の声、少し、違った気がした。


あれほど自信に満ちていた言葉が、どこか頼りなかった。


そう感じたのは、単なる気のせいだったのかもしれない。

だけど、ひとつ確かなのは——


僕はあのとき、彼女の右耳が見えていなかった。


 


***


 


軽音サークルの部室は、いつも通りの空気だった。


藤瀬はソファにだらけてスマホをいじり、後輩の春川は新歓ライブの選曲に頭を抱えている。

天真爛漫な2年のキーボード担当・椎名そらが差し入れのドーナツを配っていて、空気はにぎやかだった。


「やっぱさ、『春よ、来い』のロックアレンジやんない?」


「またそれ言ってるよ……お前、去年もそれ推してたろ」


「だって、春って感じじゃん!」


僕は笑いながら、ギターケースを開けた。

この空気が好きだった。音楽にだけ向き合える時間。

誰かに嫌われることも、傷つけられることもない。


「奏先輩は何がやりたいですか?」


春川が僕の方を向いて尋ねてきた。


「……なんでもいい。みんながやりたいものをやろう」


その瞬間、空気が少しだけ凍るのを感じた。


それは、いつも通りのことだった。

僕は中心には立たない。ただ、音を奏でるだけ。


「……じゃあ、私がアレンジする!」と、そらが明るく手を上げてくれて、その場はまた元の温度に戻っていった。


ありがたいと思う反面、どこかで感じる“浮き上がるような孤独”。


人といるのに、ひとり。

けれど、その感覚にももう慣れてしまっていた。


 


***


 


夜、配信機材の電源を入れて、静かに椅子に座る。


今日は何となく、ギターの弦を強く弾く気分じゃなかった。


「……こんばんは、カナデです。今日は、春の曲をいくつか……弾き語りで」


数百人が視聴してくれている。

けれど、僕の視線は画面の向こうにはなかった。


頭の中には、ホルンを肩にかけたあの背中が浮かんでいた。

そっと弦を撫でるように音を鳴らす。


 


 どこへ行くの、春の風よ

 言葉にできない痛みを

 そっと そっと

 通り過ぎてくれるのなら


 


演奏を終えたあと、少しだけ沈黙が流れた。


画面のコメント欄はいつもより少なかった気がした。

それでも僕は「ありがとう」とだけつぶやいて、配信を切った。


パソコンの画面が暗くなる。

その反射の中に、自分の顔がぼんやりと浮かんだ。


「……やっぱり、変だったな」


あの時の陽葵の笑顔。声のトーン。視線。


どこかに、小さなヒビが入っていたような気がした。


それに気づいた“気がした”だけの僕は、

まだその意味を知らなかった。


 


春は、始まったばかりだ。

僕と、彼女の。

そして、この物語の。

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