二. -①
翌日、朝早くから、未砂は大学の講義を受けていた。
月曜日の朝イチで行われる講義のためか、初回の講義だというのに、人もまばらだった。受講している学生には居眠りしている者もいる。
後期のシラバスには《地域史A》とあった。
未砂が所属しているのは法学部だが、学部の専門的な講義とは別に、
地域史という名のとおり、大学のある《藤庭市》の成り立ちから今日に至るまでの歩みを教えるらしい。
藤庭という地名は、千年も前から記録に残っているという。
それほど昔から、一度も途絶えることなく続いてきた土地なのだ。
たしかに、街並みのいたるところに、古い時代の名残があった。
時代を感じさせる建造物や史跡を目当てに、一年を通して観光客も多い。
都心から、電車で三十分、自動車を使っても一時間。立地の良さもあって、観光客が足を伸ばしやすいのだ。
観光客がアクセスしやすいということは、交通網が発達しており、通学や通勤にも適しているということである。
各地で少子高齢化が進んでいるなか、年々、藤庭の人口は増加している。
人が多ければ、当然、開発も進む。
都市としては昔ながらの景観を維持しつつも、駅前などの比較的新しい区域には、高層ビルや商業施設、百貨店、高級マンションが建ち並んでいた。
「千年前、この土地には何もなかった」
だから、壇上にいる教授がそう言ったとき、未砂は驚いた。
(立派な歴史があって、いまも、こんなに栄えているのに?)
昔から今日に至るまで、この地はずっと繁栄していた。そんな風に、未砂は思い込んでいたのだ。
「何もなかったところに、一人の男が現れた。伝わる話に多少の差はあれど、大筋は変わらない。千年も昔、とある高貴な生まれの男がいた。時の
教授は抑揚のない声で話を続ける。
「やがて、誰もが《藤の君》を慕うようになった頃、《藤の君》は妻を迎えることになった。しかし、婚礼の夜、花嫁は《藤の君》を裏切り、殺してしまう」
千年前のことだ。
当時は、結婚と言っても、現在とは形が違うだろう。
花嫁を迎えるというよりも、花嫁のもとに通う形だったのではないか。
(昔から伝えられている話に、変なケチをつけても野暮かな。そもそも、わたしが考えるようなこと、とっくに研究されているはずで)
教授の語りで重要なのは、未砂の抱いているような既に研究されているであろう疑問ではなく、次に続く話なのだろう。
「《藤の君》は、愛する女に殺されたことで、
未砂は目を丸くする。
祟り。
歴史の話が、急にオカルトめいた方向に
「その話が、どうして、藤庭の歴史に関係あるんですか?」
最前列にいた学生が、思わずといった様子で質問した。
「《藤の君》の祟りこそが、この土地が大きく発展した理由だからだ。──世に言うところの《祟り神》だ。祟りとなった魂は、
「ばかみたい。祟りなんて」
講義室の後ろから、女の笑い声がした。
振り返ると、未砂と同じ法学部の一年生だった。
悪意の
気づけば講義室のあちらこちらで、教授の話を否定するような反応があった。
そんな中、未砂が気に掛かったのは、青ざめた顔をした学生たちだった。彼らは何かに
「《藤の君》は、今の世でも祟る。《藤の君》が荒れると死人が出るんだ。
怯える学生の一人が、まるで独り言のように
(もしかして。笑っていない子たちは、みんな藤庭の出身?)
「はあ? 神様に殺されたって? 止めてよ、こんな年にもなって」
「言い争うならば、講義の後にしなさい」
教授がたしなめると、赤髪の女学生は
「まさか。教授まで、神様がいるなんて信じているんですか?」
「神などいない。そう考えるのは結構。だが、それを信じている人間の前では口にしないのが礼儀というものだ」
初老の教授の言葉は、やけに強く、未砂の耳に残った。
(神様なんて、噓のように思える。でも、たしかに、それを信じる人がいるのは知っている。だって、
未砂の人生は、いつも不幸と共にあった。理不尽に襲いかかってくる不幸は、積み重なれば、偶然で片付けることはできない。
神のような超常的な何かが関わっている、と思いたくなる。
だから、祟り神とて、此の世にはいるのかもしれない。
そんな風に思っているうちに、講義は終わりの時間を迎える。
退室する学生たちに乗り遅れて、未砂は慌てて机上を片付ける。あっという間に、講義室には、未砂と教授だけになった。
「片城未砂」
出口に向かうと、教壇の近くで、教授に呼び止められる。
「何か御用でしょうか?」
素直に足を止めたものの、未砂は不思議でならなかった。
法学部の教授ではないので、直接、言葉を交わしたことはない。初回の講義ということもあり、未砂の名前を認識していることも意外だった。
「片城というのは、母方の家名か?」
「……はい。よく、ご存じですね」
両親は、結婚したとき、母方の姓を選択した。
思えば、そのあたりも、父の姉である
「まさか生きている間に、再び、片城の女に会えるとは思わなかった。誰かが隠していたのか? 本家が血眼になって捜しても、見つからなかったはずだが」
教授は自分自身を納得させるように言った。
「あの……」
捜していたという言葉は気になるものの、用事がないならば解放してほしかった。
喫茶店のバイトを辞めるかもしれないので、大学構内に貼られている求人票を確認しにいきたい。短期バイトの募集は早い者勝ちなのだ。
未砂は教授の名前を思い出そうとする。
たしかシラバスに書かれていたのは──。
「宝条、教授?」
その家名に、未砂は昨夜のことを思い出す。
たしか亜樹という男も《宝条》と名乗っていた。
「お待たせしましたか、教授?」
そのとき、講義室に入ってきたのは、スーツ姿の若い男だった。講義室の明かりの下で、
「いいえ。約束の時間ぴったりですよ。仮に待っていたとしても、あなたをお待ちすることは望外の喜びでしょう」
「それもそうか。俺は、あなたたちにとって大事な器だからね。もう下がっても構わないよ」
「かしこまりました。失礼いたします、亜樹様」
教授は入室してきた男に一礼して、そのまま交代するように去ってしまう。
講義室には、未砂と男だけが取り残される。
「昨日の、お兄さん」
昨夜とは生地の違うスーツだったが、同じようにオーダーメイドと
何より、そのスーツに着られていないことが、彼の育ちを意識させる。
おそらく、かなり立派な家に生まれた人だ。
「
未砂、と呼ぶ声に、男の言葉がよみがえる。
『片城未砂さん。どうか、俺と結婚してください』
理由も分からず求婚されたことが一番の気がかりだったが、名前を呼ばれたことも頭に引っかかっていた。
「どうして、わたしの名前を知っていたんですか?」
「君は忘れてしまったみたいだけど、十年前、会ったことがあるんだよ」
問いの答えをはぐらかすような言葉に、未砂はむっとなる。十年前と言われても、具体的な話が何もないので信用できない。
「ちゃんと話してくれないなら、しかるべきところに相談します」
「どこに、どんな相談をするの?」
「……学務課に。構内に不審者がいます、とか?」
思わず疑問形になってしまった。
具体的な危害を加えられたわけではない。
いま亜樹と再会したことも、しらを切られたら、それまでだ。
未砂に会いにきたのではなく、教授に呼び出されたことで、偶然にも未砂と再会した。そのように説明されたら反論できない。
「不審者かあ。ストーカーとは言わないんだね」
亜樹は機嫌が良さそうに
「ストーカーも、昨夜は少しだけ考えました。でも、わたしなんかにストーカーがいるとは思えなかったので」
「俺が言うことではないけど、危機感が足りなくて心配だな。本当だったら、真っ先に警察に駆け込む、という選択肢を思い浮かべてほしいんだけど」
「駆け込んだら、あなたは引いてくれるんですか?」
「ごめんね、引かない。警察も、俺が相手だと取り合ってくれないだろうしね。向こうは、俺たち宝条と
未砂は困ったように
「ご用件がないなら、失礼します」
未砂は講義室から出ていこうとする。
「君を襲う不幸の理由について、知りたくない?」
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