一. -②

「お兄さん。大丈夫ですか?」


 男の頭上に向かって傘をかざす。

 そうすることで、未砂自身が濡れることになっても構わなかった。彼のことを放っておくことができなかった。

 今の今まで、未砂の存在に気づいていなかったのか。

 雨粒が傘に遮られたことで、ゆっくりと男は顔をあげた。

 少年というには成熟しているが、働きざかりの大人の男性というには若い男だ。

 年の頃は、おそらく大学一年生の未砂と同年代だ。

 しかし、リクルートスーツではなく、会社員が着ているようなスーツ姿だったので、学生ではなく社会人なのだろう。

 ぞっとするほど整った顔立ちの男だった。

 モデルや俳優、あるいは人気のアイドルと言われても不思議ではない。

 の国の人間にしては珍しく、未砂のような黒髪ではなく柔らかな茶髪だった。

 雨に濡れているせいで、多少、色が濃く見えるのだろう。太陽の下だったら、もっと淡く、はちみつみたいな優しい色をしているのかもしれない。

 透けるように白いはだと、その髪は良く似合っていた。

 だが、未砂がいちばん印象的に思ったのは、そのぼうや髪の色ではなかった。

 長いまつにふちどられた、紫のそうぼうだ。

れい。藤の色だ)

 吸い込まれるような、美しい花の色。

 不意に、未砂の頭のなかに記憶のざんのようなものが浮かんだ。この藤色を知っている気がした。

 十年前、母が亡くなったときのことだ。

 降りしきる雨のなか泣いていた、小さな未砂のもとに──。

「濡れてしまうよ。風邪を引いたら大変だ」

 耳に心地よい天鵞絨ビロードのような声だった。昔のことを思い出そうとしていた未砂は、その声によって、現実に引き戻された。

 わずかによみがえった記憶が、また遠ざかってゆく。

 忘れてしまっていた、けれども大事な記憶。それに指先だけかすめたようなもどかしさが、まるでひっかき傷のように残る。

「お兄さんこそ、こんな雨のなかにいたら風邪を引きます。もしかして、もう風邪を引いているかも。具合が悪くて、動けなくなりましたか?」

 男はゆっくりと首を横に振った。ありふれた仕草でさえも、映画のワンシーンのようだった。

「元気だよ。悩み事があって、考え込んでいたら、急に雨が降ってきてしまったんだ。頭を冷やすのには、ちょうど良かったのかもしれないけど」

「……頭が冷えて、悩み事も解決しましたか?」

「ぜんぜん。それどころか、今になって、ますます、どうしようかな、と迷っているところ」

 迷ったまま、この雨のなか一人きり過ごすのだろうか。

 見ず知らずの男だ。傘を差し出したことで終わりにして、この場を去るべきだ。常識的に考えたら、それが正解なのだろう。

(でも、一人にできない。この人を独りにしたくない)

 おひとし、と誰かが頭のなかでささやく。

 だが、そうではないことを未砂は知っている。目の前の男を心配している気持ちも噓ではないが、これは過去の自分を慰めるためでもある。

 もし、雨のなか彼と同じように一人きりだったら、隣に誰かがいてほしい。

 ほんの少しだけよみがえった記憶では、未砂は雨のなか泣いていた。

 はっきりとしたことは思い出せなかったが、あのときの未砂は、きっと、傍にいて心配してくれる人がほしかったはずだ。

 小さな未砂がそうしてほしかったように、この人に優しくしてあげたい。

「わたしで良いなら、お話を聞きましょうか? 何の役にも立てないかもしれませんが、話したら、少しは気持ちが楽になるかも」

「こんな怪しい男なんて、見ない振りすれば良かったのに。怖い目に遭うとは思わなかったの?」

「たとえ、怖い目に遭ったとしても。見ない振りをするより、ずっと良い、と思いました。……本当は、そんなことないかもしれないけど。お兄さんが、とても悲しそうで、泣いているみたいに見えたので」

 男は目を丸くしたあと、柔らかな笑みを浮かべた。

「優しいね。──好きな人がいるんだ。彼女のことを考えるなら、俺の恋心は伝えるべきではない。気持ちなんて伝えなくても、俺のするべきことは変わらないから。でも、どうしてもあきらめがつかないんだ」

「好きな人に、あなたの気持ちを知ってほしい?」

 男は小さくうなずいた。

「忘れないでほしいんだ、俺のことを」

「わたしは恋をしたことがないので、お兄さんと同じ恋愛の《好き》は分かりません。……でも、好きな人には、好きと言った方が良いと思います。人生は何が起きるか分からなくて、あなたの好きな人が、もう会えない場所に行ってしまうことだってあります」

 未砂の頭には、亡き母の姿が浮かんでいた。

 いってきます、という言葉を最後に、母は帰らぬ人になった。

 好きな人にいつでも会える、というのは噓だ。どれだけ叫んでも、手を伸ばしても、届かない場所に行ってしまう人はいる。

「会えない場所。死後の世界かな?」

「死後の世界でも、遠い場所でも。自分も相手も、誰だって人生は一度きりです。その一度きりのなかで、好きな人ができることも、その人に好きだと言えることも、きっと、奇跡みたいに幸せなことです」

「たしかに、彼女とえたことは奇跡みたいに幸せなことだった」

 彼は一度だけ目を伏せてから、ゆっくり開く。まるで眼裏に好きな人のことを思い浮かべたように。

「すみません。赤の他人が偉そうに」

「謝らないで良いよ。君の言葉が、何よりも勇気をくれる」

 男は、まるで自分に言い聞かせるかのようにつぶやいてから、ブランコを下りた。

 そうして、未砂の前にひざまずいた。

 雨が降っているので、公園の地面はぬかるみ、綺麗とは言いがたい。ひざをついたことで、男のスーツが泥で汚れてゆく。

 未砂は顔を青くした。

 今まで薄暗くて気づかなかったが、男のスーツは、生地からして既製品とは違うようだった。

 おそらくオーダーメイドの高級品だ。

 男の体形にぴったりと沿うようにつくられていることも、彼のためにあつらえられたスーツであることを示していた。


「片城未砂さん。どうか、俺と結婚してください」


 スーツのことに気を取られていた未砂は、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 目を丸くしたまま、身体の動きを止めてしまう。

「結婚してください」

 聞き間違いと思いたかったが、そんな未砂に念を押すように、もう一度、男は求婚してくる。

「わたし、と? いま、はじめて会ったばかりですよね。あなたの名前も知らないのに……」

ほうじよう

「な、名前を知ったからといって、初対面の人とは結婚したりしません」

「初対面ではないよ。やっぱり、俺のことは忘れてしまった? 仕方ないか。十年前のことは、きっと、君にとっては特別なことではなかったから」

「……なにを、言って」

 戸惑いをあらわに、未砂は一歩後ずさってしまう。傘を握っている手に力が入らなくなって、そのまま落としてしまった。

 降りしきる雨のなか、亜樹と名乗った男は、じっと未砂を見つめていた。

 宝物でもでるような、甘く、優しいまなざしだった。

 藤色の目に見つめられると、どうすれば良いのか分からなくなった。その美しい色を、未砂は知っている気がするのだ。

 それなのに、はっきりと思い出すことができない。


「好きだよ。君のためなら死んでも良いくらい、君のことを愛しているんだ」


 砂糖を煮詰めたような、甘ったるい声だった。

 だが、その声とは裏腹に、指一本、未砂に触れようとはしない。跪いて、許しを請うだけだった。

 許し──未砂が、はい、と頷くことか。

 好きと言ってくれたのならば、何かしらの返事が必要だろう。人生は一度きりと言った未砂の話を聞いて、勇気を出してくれたのかもしれない。

 しかし、やはり知らない人とは結婚できない。

「……っ、ご、ごめんなさい!」

 未砂は混乱したまま、なんとか返事をしぼり出した。どうすれば良いのか分からなくなって、亜樹に背を向けて、よろよろと走り出す。

 公園を出るとき、一瞬だけ振り返る。

 亜樹は追いかけてこなかった。その代わりに、微笑んで、ひらひらと片手を振っていた。

 まるで、またね、とでも言うように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る